築地八町堀日本橋南之図 石川島佃島
石川島
長谷川平蔵献策による人足寄場が作られ、その後石川島造船所となり第二次世界大戦後、石川島播磨重工業(現、IHI)となりました。
佃島
佃煮(庶民の味)はこの島で最初に作られました。毎朝、ご飯が美味しく食べられます。有難うございます。
向井家は代々将監を名乗り御船手奉行を世襲し、将軍御座船の指揮をとった。
徳川幕府御座船「安宅丸」。幟に描かれた「む」向井将監の旗印。
小石川谷中本郷絵図 麹町永田町外桜田絵図
三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、姫君(姫君とは将軍家の娘だけを指し、大名家の娘は姫様と呼ぶ)のために「御守殿」を建設し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼んだ。加賀前田家の赤門(現・重要文化財)、佐賀藩鍋島家、広島藩浅野家があった。
赤門は、仮に焼失した場合は再建を許されず、また焼失したとなれば将軍家に対する忠誠の欠如とみなされたため、加賀藩では「加賀鳶」という消防団が組織されて赤門を守っていました。
江戸の各地にあった赤門は、姫君が亡くなると直ちに御主殿と共に取り壊されたため、その数は減っていきました。加賀藩の赤門は、加賀藩13代藩主・前田斉泰が、11代将軍・徳川家斉の娘・溶姫を迎え入れた時に建てられました。明治元年まで溶姫が存命だったため破却されずに残った貴重な存在です。
① 冠木門 鏡柱に冠木を渡しただけの簡素な門 ②
① 大名屋敷の表門は10万石以上ですと入母屋屋根に唐破風番所付きが普通です(隣の浅野家の表門)。黒田家の冠木門は珍しいです。これは長政が質素倹約を旨とする父の藩祖・黒田如水の教えにより藩内には豪壮な別邸屋敷や、大名庭園などは築庭しなかった事の伝統を受け継いだものと思われます。
② 彦根藩に姫君は嫁いでいない。どうして赤門なのか? 多分、井伊の赤備えの伝統により許されていたと思います。
又、井伊家上屋敷はその前、あの加藤清正公の屋敷でありました。
番町絵図 千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ツ谷絵図
旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も一番町から六番町に引き継がれている。しかし江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の区画は一致しない。表札もなく、同じような造りの旗本屋敷ばかりが密集しており、住民でさえ地理を認識することが困難であったため「番町の番町知らず」という諺が流布した。
百人組は文字通り100人で構成され、その人員も編成当初は、伊賀・甲賀・根来といった、鉄砲の扱いに優れた地域の者を召抱えている。
先手とは戦闘時には徳川家の先鋒隊を務めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した。
火付盗賊改方長官は、先手頭1名が加役として兼務したが、御先手組は番方(武備を受けもつ役職や組織、武官)であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。
西念寺
服部半蔵正成が開基した寺。同寺は服部氏の菩提寺であり、半蔵をはじめ服部一族の墳墓があります。また、半蔵が守役を務めた徳川家康の長男・信康のために彼が建てたとされる供養塔が現存している。
御先手組、伊賀、百人組の屋敷地が多くありますが中に小役人の屋敷地もあちこちに見られます。小役人は可哀想すぎます。
内藤新宿千駄ヶ谷辺絵図 牛込市ヶ谷大久保絵図 高田馬場
追分 もとは牛馬を追い、分ける場所を意味した。そこから転じて街道の分岐点を意味するようになり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿追分など、各地に地名として残っている。
現在、明治神宮になっている井伊家下屋敷、ここも偶然とは思いますが井伊家の前は加藤清正公の屋敷でした。
高田馬場 寛永13年(1636)、三代将軍家光が弓馬調練の為築いた。
堀部安兵衛 寛文10年(1670)生まれ。赤穂義士四十七士のひとり。越後新発田藩浪人。江戸で堀内道場同門の菅野六郎左衛門の高田馬場での決闘に助太刀して勇名をはせ、播磨赤穂藩士堀部弥兵衛の婿養子となる。吉良義央邸討ち入りにくわわり、元禄6年(1703)2月4日松平邸で切腹。34歳。大石良雄らとの往復書簡をまとめた「堀部武庸(たけつね)筆記」がのこる。
本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。
本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。