金山城は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高239メートルの独立峰、金山に築かれた山城である。別名「新田金山城」、「太田金山城」。
立地・遺構 新田金山の頂上にある山城であり、現在は、本丸跡とされている地点に新田神社がある。背後の斜面には石垣の一部が遺存しており、往時のようすを現在に伝える。関東平野を一望に収めることができ、西方は一段低くなっており「日ノ池」「月ノ池」がある。西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられている。 また南曲輪には中島飛行機の創設者である中島知久平の胸像が建てられている。
石垣 新田金山城の史跡環境整備事業に伴い、平成4年より発掘調査を開始し、石垣を多用した山城の姿が解明しつつある。 大手虎口の土塁石垣において、石垣を改修した痕跡が認められ、計5回の改修が行われていることが判明した。 また、「アゴ止め石」を採用した箇所が、大手虎口を含めて広範囲に広がっていることも分かった。「アゴ止め石」は、石垣基底部(最下部)の石を、石垣の面より10㎝~20㎝前に出して据え置く技法であり、石垣が沈み込んで、前へ傾くのを防ぐためのものと考えられている。
- 1469年(文明元年) 新田一族であった岩松家純によって築城される。以降、1528年(享禄元年)に由良成繁・国繁親子、1584年(天正12年)には北条氏と主は変わったが、上杉謙信や武田勝頼の攻撃を退けるなど、関東七名城の一つとされる。
- 1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際攻撃を受けて落城、こののち廃城となった。
- 1934年(昭和9年)12月28日に「金山城跡」として国の史跡に指定された。現在は、いくつかの遺構をもとに、公園として整備されている
現地案内板 現在地位置図 太田金山城石碑 現在地 西城喰違門跡 ・見附空堀跡
西城喰違門跡 西 城 旧通路説明板 旧通路
・見附空堀跡
現在地 西矢倉台西堀切 西矢倉台西堀切説明板 O 講師 ハーイ、
皆さんこの堀切が第一の関門です。見事な堀切ですね。
石畳にして通路として使っていたんですね 西矢倉台西堀切
関東七名城とは江戸時代の書物『管窺武鑑(かっきぶかん)』で選ばれた、宇都宮城、太田金山城、忍城、唐沢山城、川越城、佐竹城(舞鶴城・太田城)、前橋城の7城です。
宇都宮城本丸復元清明台櫓 本丸復元富士見櫓 忍城模擬御三階櫓 忍城本丸土塁
唐沢山城天徳丸喰違虎口 唐沢山城本丸石垣 川越城本丸御殿 川越城外曲輪中ノの門堀
佐竹城(舞鶴城)本丸跡 佐竹城(舞鶴城)二の丸跡 前橋城本丸土塁 土手曲輪車橋門跡
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