san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る高知城

高知城

江戸時代には土佐藩藩庁が置かれた。江戸時代に建造された天守や本丸御殿(なお、天守と本丸御殿が両方現存しているのは高知城のみである)、追手門等が現存し(天守と追手門が両方現存している城は全国で弘前城丸亀城高知城の3ヶ所)、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。

慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易された。代わって、山内一豊掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。

慶長6年(1601年)8月、浦戸は城下町を開くには狭いため、一豊は長宗我部氏が一旦築城を断念した大高坂山の地に新城を築くこととしたが、同地は浦戸湾に面した地の利があるが、当時、同地周辺は湿原が広がるデルタ地帯で、長宗我部氏が断念したほどの水害の地であり、山内家の技術では困難が予想された。一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた。翌月より百々は大工頭、鍛冶頭、築壁造頭らを率いて、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川江ノ口川など川の治水工事に着手した。

木材は、同国内から石垣は浦戸城のものも流用し、瓦は上方に発注した、とされている。その他専門の職人は大坂から雇用し、人足には山内家家臣団も利用された。子供も工夫として参加させ、賃金も支払われた。一日の参加人数は1200人を越えたと伝わる。冬の寒い時期は粥などの炊き出しを行い、月の明るい夜は夜通しの工事も行われた。

慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日旧暦8月21日)に入城した。この際に、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。

慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで2代目藩主忠義河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって高智山城と改名した。この時より後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。

慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。城郭構造梯郭式平山城 天守構造独立式望楼型 4重6階

代表紋章:丸に細三つ柏・土佐柏    ウィキペディアWikipedia)より引用

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    高知城 正保城絵図 正保元年(1644)           高知城縄張図

    国立公文書館Webサイトより引用

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いざ龍馬(竜馬)の故郷土佐へ  富士山がお見送り      高知城石碑

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