天正13年(1585)家康の懐刀と言われていた石川数正が徳川家より出奔して豊臣秀吉に臣従。
天正18年(1590)河内国内8万石から信濃国松本十万石で加増移封。
小笠原時代の松本城の整備と城下町の拡充に着手。
『信府統記』は次のように記しています。
「数正は二の曲輪に慰み所をつくり城普請を催す。康長は父の企てた城普請を継ぎ天守を建て、総堀を浚い幅を広くし、岸を高くして石垣を築き、渡り矢倉を造り・黒門・太鼓門の門楼をたて、塀をかけ直し、三の曲輪の大城戸を門楼にした。総堀の周りの塀は大方たち、城内の屋形も修造した。郭内には士屋敷を建て、郭外にも士屋敷を建てた。」
元禄元年(1592)文禄の役出兵中、石川数正病死、子の康長家督を継ぐ。
文禄3年(1594)に天守はあげられたとみられます。仮想敵国は徳川家。
天守4階(御座所)
もしも松本城落城との事態に際し石川数正親子が切腹に不覚を取らぬように家来がこの②秘密通路から3階①に降り最後の抵抗を試みる。
又は、松本城落城の事態に陥るような戦ならば必ず豊臣軍の後詰(信濃と言えば真田親子、鬼に金棒です)が近くまで来ている筈です。この秘密通路から敵の盲点をつきどうにか逃げ出せれば捲土重来松本再入城も可能です。
4階から3階への通路は(一)(二)(三)(四)と4箇所も有ります。これは3階の敵の背後を突く以外に城主が落ち延びるのを前提としているように思います。
□部分の梁(手斧仕上げ)を一段下げて床との間に空間を作っています(板の仕上げが違います)。この空間にいざという時に吹抜けを階段として使うため歩み板または梯子を収納していたと想像されます。
家康の懐刀と言われた数正です。徳川を敵に回して色々深く考えをめぐらし築城したと思われます。
天守3階
慶長3年(1598)、豊臣秀吉死去
慶長5年(1600)関ケ原の戦いで康長東軍に与する。
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