城の形式は連郭式平山城。本丸、二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪が配置された。御殿は二の丸に置かれた。本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられた。山崎曲輪三重櫓は明治初期に破却された。なお、城の北側には玄宮園と楽々園という大名庭園が配されており、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。玄宮園、楽々園はかつて松原内湖(戦中・戦後に干拓)に面しており、入江内湖も望める絶景であった。
また、現存例の少ない築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。
建築 彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。 建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。
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●現在地 長松禅院
長松禅院(現・彦根市本町2丁目3−7) 慶長7年(1602年)2月1日彦根城築城途中に彦根藩初代井伊直政が、関ケ原の戦いによる破傷風で病没。享年42。遺体は遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され、その跡地に創建された寺院が長松院です。客間には赤鬼と敵に恐れられた赤備えの武者姿を描いた井伊直政の掛軸があります。
三の丸城下
駄賃「荷馬に荷物を載せるための料金」のことを指したのですが、現在では「ちょっとした労力に対して与える金銭、つかい賃。特に、子供へのごほうび(お駄賃)」(広辞苑・第七版)を意味するようになりました。
●現在地 宗安寺
宗安寺(現・彦根市本町2丁目3−7) 朱塗りの山門は赤門と通称され、慶長8年(1603)佐和山城の大手門を移築されたと伝えられています。
馬に乗って入れるよう敷居がありません。
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