san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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チェスト 薬丸自顕流の演武(動画)

2013年9月14日、東京大田区洗足池へ薬丸自顕流の演武を見にいきました。その時の動画です。

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薬丸自顕流 
薩摩藩士・薬丸兼陳(やくまる けんちん)が示現流を修めた後、家伝の野太刀の技を元に編み出した。

天保期、薬丸兼武が示現流から独立し、薬丸自顕流を名乗ります。

実戦的で有名な示現流よりもさらに実戦を重視した剣術である。難解な精神論は存在せず、ただ「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」という一撃必殺の精神を尊ぶ。

打ち込みの際に発する裂帛の気合いは「猿叫」と呼ばれる独特の掛け声を用いる「キエーッ」と叫んでいるように聞こえる。

新選組局長・近藤勇が「薩摩の初太刀をはずせ」と部下に命じたというすさまじい剣法、『薬丸自顕流』。

桜田門外の変で、大老井伊直弼の首を打ちとった有村次左衛門。
伏見寺田屋騒動で島津久光の命に従い同志を上意討ちし、のちに初代鹿児島県令になった大山綱良

生麦事件の奈良原喜左衛門。
そして、幕末から明治に活躍した桐野利秋西郷従道東郷平八郎などは、皆、薬丸自顕流の達人だったそうです。

明治維新は,薬丸どんで叩きあげた」と薩摩では言われました 。

 

八相の構えより剣を天に向かって突き上げ、腰を低く落とした、「蜻蛉」の姿勢を基本とする。稽古法としてはユスの木の束を横にした台に向け一心不乱に木剣を振り降ろす「続け打ち(立木打ち)」。「続け打ち」は横木を打っているわけではなく、目の前の相手を袈裟斬りにしている想定で、横木は振り降ろす剣を受けとめるために設置しているものです。

 

居合の技である「抜き」も備え、「抜即斬」と称される神速の攻撃が特徴。刀を腰に差した状態からの電光石火の斬り上げは、かわすのが困難だったと云われる。

複数の木を地面に立て、走り抜けながら打ち倒していく「打ち廻り」は多人数の敵を想定した実戦的な稽古です。

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