san-nin-syuの城旅

san-nin-syuの城旅

「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

縄張図片手に廻る彦根城 「御城内」を廻る 坂虎口 登り石垣

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●現在地

坂虎口 虎口前面を急な坂とすることで寄せ手の勢いを削ぐ構造。

彦根城は坂虎口多用し、坂の上り切った所に枡形を設け防御力を高めています。

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彦根城登り石垣 石垣高さ9尺瓦塀と「御城内御絵図」に記されています。

 

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登り石垣

文禄・慶長の役において、大名たちの侵攻の拠点として朝鮮半島に倭城が築かれ、その多くは日本からの補給口となる船着場を確保するため、海岸や河川に近いところであった。本丸と天守は見晴らしが良く防備の要となる小高い丘や山の上にあったが、兵の居住建物等は補給口に近い平地にあったので、その間の侵入を防ぐため、本丸と港を取り囲むように山腹の両側に日本式の石垣を築造した。これを登り石垣という。

日本軍の撤兵後、天守や櫓は破壊されたか破損して消滅したが、登り石垣も含めて天守台その他の石垣はほとんど現存している。ただし、城によっては、石垣の角部数箇所が破壊されている。もっとも長大な登り石垣は熊川城(東に突き出た半島の城)にあり、山頂の本丸の北側の登り石垣の麓までの長さは600 m、南側が400 mである。

近年、中国・朝鮮半島・日本の築城交流史をうかがえる貴重な遺構として、韓国でも調査・研究が進んでいる。 ウィキペディアWikipedia)から転載。有難うございます。

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文禄・慶長の役朝鮮半島から帰国した大名が、国内での築城や改修の際、その手法を用いたとされるが、一国一城令明治維新に破却された城郭が多く、登り石垣の歴史的過程については、築かれた箇所などを含め、まだ充分に解明されていない。

日本の登り石垣の現存は少なく、彦根城鳥取城、伊予松山城、洲本城、米子城竹田城位です。

記事の中の寸法(石垣高さ、堀巾、その他の寸法)は彦根御城下惣絵図」「御城内御絵図」の数字を参考にしています。

本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

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