① ② ③ ④
① 高松城は、香川県高松市玉藻町にある。国の史跡に指定されている。
高松城は別名「玉藻城」、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。
② 城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていた。 かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。縄張りは黒田孝高が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われている。高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため戦争時の篭城や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であった。
66万m2(約20万坪)あった城の総面積も、現在では約1/8の7万9587m2(約2万4千坪)にまで減少した。現在でも外堀と内堀には海水が引き込まれており、往時の名残を残している。そのため、堀には牡蠣などの貝が生息し、養殖の鯛も放流されている。
1945年(昭和20年)高松空襲により三の丸の桜御門が焼失。
1950年(昭和25年)文化財保護法の施行により北の丸月見櫓、北の丸水手御門、北の丸渡櫓、東の丸艮櫓が重要文化財に指定される。
1955年(昭和30年)3月2日 国の史跡に指定される。
③ 生駒親正、大永6年(1526年)美濃国可児郡土田(現在の岐阜県可児市土田)に生まれる。
永禄9年(1566年)、織田信長の美濃攻めに際してその臣下となる。
天正10年(1582年)の信長死後は秀吉の家臣となり、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍。
文禄4年(1595年)には讃岐国12万6千200石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、子の一正は東軍に与し、親正は西軍に与して丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣した。
戦後に剃髪し、高野山に入った。
その後、一正が東軍に与した経緯から生駒家の所領は安堵された。一正は領内の再検地と高直しにより讃岐高松藩の表高は17万3千石となる。ほどなくして讃岐に戻り、慶長8年(1603年)に高松城にて死去した。 ①②③ウィキペディア(Wikipedia)より引用
歴史の奇縁 親正には弥平次という弟があった。妻はお類という。親正の義理の妹にあたる。弥平次は斉藤義龍と明智氏との戦いで明智側に付き長山城の戦いで戦死。妻のお類は実家のある尾張へ帰る。ここで信長と出会い吉乃と名を変え信忠、信雄、徳姫と3人の子を生む。(異説有り)
もう一つ 親正の父、土田親重の姉土田御前は織田信秀に嫁ぎ信長、信行を生んでいる。 予想外に生駒家と織田家は繋がりがあります。
④ この屏風絵は作者不明ながら、1640年代半ばの高松城下の景観を描いたものである。城内の建物や城下の町並みが驚くほど詳細丹念に描かれた北西方向から見た鳥瞰図である。
群青色の瀬戸内海に面して三重四階の天守、御殿の所在する本丸・二の丸を囲む内堀、三の丸・桜の馬場・西の丸を囲む中堀、武家屋敷街を囲む外堀の三重の堀が描かれている。外堀には舟入が設けられ、西側には藩の船蔵、東側には商人用の東浜港が描かれ、藩の御座船をはじめ、大小の船が描かれている。
外堀の西側には中下級家臣の武家屋敷が描かれている。また、外堀南側の堀端に沿って片原町・兵庫町、さらに南北に丸亀町などの商人街が描かれ、丸亀町の両側には大工町・外磨屋町・紺屋町・鍛冶屋町などの職人町が描かれている。城下には様々な職業の人物・店が描かれ、人馬で賑わっている。城下の南部には東西に堀状の溝が描かれ、それに接して寺院が建ち並んでおり、有事の防御線とみられる。城の東側は海が大きく湾入している様子や、塩田が営まれていた状況もうかがえる。城下の南西の外れには石清尾八幡宮の社叢が描かれている。
近年、発掘調査において、この絵図に描かれた地割と同じ地割などが確認され、その描写の正確性も証明されつつある。当時の景観を知る上で、貴重な資料と言える。
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高松城下図屏風 - 不詳 — Google Arts & Culture
https://artsandculture.google.com/asset/takamatsu-castle-town-unknown/ZgFCdrbiKpT0ZQ?hl=ja
① ②
① 本図は寛永15から16年(西暦1638から1639年)頃の状況を描いたと考えられている。城内は各曲輪の配置が描かれ、各曲輪の大きさ、堀幅などが記載されており、天守は4重との記載が見える。外堀の内側は武家屋敷が建ち並んでおり、各屋敷には居住者の名前が記載されている。また、外堀の外側には町屋が描かれ、丸亀町の南端が城下の南端になっていることがうかがえる。生駒家時代の高松城および城下の様子がうかがえる貴重な資料と言える。
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[ID:83] [生駒家時代讃岐高松城屋敷割図] : 資料情報 | 収蔵品データベース | 高松市歴史資料館 (jmapps.ne.jp)
https://jmapps.ne.jp/takamatsu_rekisi/det.html?data_id=83
② 中堀と外堀の間を外曲輪と呼んでいます。江戸時代には武家屋敷が建ち並ぶ場所でした。現在、外堀は埋め立てられ市街化されており、城の雰囲気はありませんが、地割などにその名残りが見られます。近年ビル建設等に伴う発掘調査によってその一端が解明されつつあります。
松平大膳家中屋敷跡発掘調査 松平大膳家上屋敷跡発掘調査 東町奉行所跡
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香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 絵図 | [高松城下町屋敷割図] (kagawa.lg.jp)
https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/digitallibrary/sonota/ezu/detail/DM00170.html
歴代 | 城主 | 生没年 | 城主期間 | 主な事跡 |
---|---|---|---|---|
1 | 生駒親正(ちかまさ) | 大永6年(1526)~慶長8年(1603) | 天正15年(1587)~慶長6年(1601) | 信長・秀吉に仕える。三中老の一人ともいわれる。関ヶ原の戦いでは西軍に参加。 |
2 | 生駒一正(かずまさ) | 弘治元年(1555)~慶長15年(1610) | 慶長6年(1601)~慶長15年(1610) | 父と共に、各地を転戦する。関ヶ原の戦いでは東軍に参加。讃岐一国を安堵される。 |
3 | 生駒正俊(まさとし) | 天正14年(1586)~元和7年(1621) | 慶長15年(1610)~元和7年(1621) | 大阪冬の陣・夏の陣に参加。大阪城の普請にも参加。 |
4 | 生駒高俊(たかとし) | 慶長16年(1611)~万治2年(1659) | 元和7年(1621)~寛永17年(1640) | 客臣西嶋八兵衛が領内に多くの溜池を造る。生駒騒動により出羽矢島1万石に転封。 |
1 | 松平頼重(よりしげ) | 元和8年(1622)~元禄8年(1695) | 寛永19年(1642)~延宝元年(1673) | 常陸下館より高松へ入部。高松城の大改修を行うなど、高松松平家200年の基礎を築く。 |
2 | 松平頼常(よりつね) | 承応元年(1652)~宝永元年(1704) | 延宝元年(1673)~宝永元年(1704) | 頼重の大改修を引き継ぐ。財政を建て直し、学問を奨励。 |
3 | 松平頼豊(よりとよ) | 延宝8年(1680)~享保20年(1735) | 宝永元年(1704)~享保20年(1735) | 在国中のほとんどを御林御殿(栗林公園)で過ごすも、地震・大火災など災害の頻発で藩財政窮乏。 |
4 | 松平頼桓(よりたけ) | 享保5年(1720)~元文4年(1739) | 享保20年(1735)~元文4年(1739) | 藩士の減禄、倹約令など財政緊縮に努めるも、若くして没。 |
5 | 松平頼恭(よりたか) | 正徳元年(1711)~明和8年(1771) | 元文4年(1739)~明和8年(1771) | 精糖法の研究・塩田開発等殖産の奨励。平賀源内を登用するなど、学問好の殿様として知られる。 |
6 | 松平頼眞(よりざね) | 寛保3年(1743)~安永9年(1780) | 明和8年(1771)~安永9年(1780) | 財政の引締めと民政の復興を行う。藩校講道館を建設。 |
7 | 松平頼起(よりおき) | 延享4年(1747)~寛政4年(1792) | 安永9年(1780)~寛政4年(1792) | 度重なる大干ばつ発生。領民に米を貸す等善政を施す。 |
8 | 松平頼儀(よりのり) | 安永4年(1775)~文政12年(1829) | 寛政4年(1792)~文政4年(1821) | 地場産業の振興を行うも、藩札発行でインフレを招く。 |
9 | 松平頼恕(よりひろ) | 寛政10年(1798)~天保13年(1842) | 文政4年(1821)~天保13年(1842) | 文化面では、町人出身の長町竹石等を庇護する。塩田開発等により財政再建を果たす。『歴朝要紀』の編纂を行う。 |
10 | 松平頼胤(よりたね) | 文化7年(1810)~明治10年(1877) | 天保13年(1842)~文久元年(1861) | 井伊大老と親しくする。攘夷防衛の要所警固や水戸藩政後見を担い治世中の多くは江戸詰め。 |
11 | 松平頼聰(よりとし) | 天保5年(1834)~明治36年(1903) | 文久元年(1861)~明治2年(1869) | 朝敵とされるが恭順の道を選択をする。上京し後に伯爵となる。 |
高松城公式ホームページより引用
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