江戸城三十六見附。「浅草見附栄螺(さざえ)なら蓋のとこ」と川柳に詠まれた、江戸城の濠の螺旋基点である浅草橋門から出発し、外堀(神田川)沿いに反時計回りに外堀を廻り、そして内堀を同じように反時計回りに歩く予定です。また、見附付近の江戸時代の史跡も見て廻りたいと思います。
今と昔をつなぐ古地図・浮世絵の魅力。
江戸切絵図と浮世絵を照らし合わせて見ていますと、想像力を掻き立てられ江戸城と江戸の町をブラブラと歩いている感じで楽しくなってきます。江戸の暮らしの様子が浮かんでくる様です。
「江戸切絵図」は上がほぼ北向きにしてあります。
江戸時代初期の上水
徳川家康江戸入府
豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅び、秀吉は家康に対し、従来の三河・遠江などから関東への転封を命じます。
徳川家康の江戸入府は、天正18年(1590年)8月1日(旧暦・八朔)、家康が与えられたのは「関八州」(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房・常陸)250万石とされ、江戸城を本拠とすることになりました。
入府当日は、約1万の軍勢を率いて府中から甲州街道、そして現在の虎ノ門を経て江戸に入りました。
「天正18年8月1日」が入府の日とされ、江戸時代にはこの「八朔(はっさく)」を「八朔御祝義」として幕府の祝日とし、大名・旗本が登城して将軍を祝う行事が行われました。
城郭の生命線。そうです水です。
江戸に入城した徳川家康は早速上水道の建設に取り掛かりました。当時の江戸は潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また井戸も塩分が混じった水でした。
小石川上水・千鳥ヶ淵・牛ヶ渕



「小石川上水」は、徳川家康に命じられて江戸に入城する以前から、大久保藤五郎忠行が三ヵ月のあいだに整備した。1590年(天正18年)に小石川を水源として、江戸で最初の上水道です、後に水源を井の頭池などに拡張して「神田上水」へと発展しました。
家康は藤五郎の功績に対して主水という名を与えました。大久保家では「もんど」では水が濁るというので代々「もんと」と名乗りました。
小石川上水の水源や配水経路等について具体的なことはわかっていません。




「千鳥ヶ淵」は文禄元年(1592)頃から、旧・局沢川を半蔵門と田安門の土橋で塞き止めて造られた人造湖で、飲料水や生活用水、濠として利用されました。




「牛ヶ淵」も同様に、武蔵野台地東縁からの湧水や小川を清水門付近でせき止めて、飲料水や生活用水、濠として機能しました。
1653~1654年に玉川上水が完成すると、半蔵門付近などから玉川上水の分岐水がお濠へ供給されるようになり、千鳥ヶ淵・牛ヶ淵の水質維持にも寄与しました。
濠割による人工の濠ではなく、自然の流れを堰き止めた飲料水用貯水池として始まったため、濠と区別して『淵』と名付けられた。
「くだんうしがふち」
葛飾北斎の洋風風景版画の中で最も知られているのは〈平仮名落款〉と俗称される中判の風景版画5枚である。これは、いずれも石垣模様で額縁風に外枠を囲み、書名と題名を平仮名の続け字で書き、それを90度左に倒したものである。そうすると、一見オランダ語風に見えるという北斎の機知がうかがえる。落款は全て「ほくさゐゑかく」で、描かれた風景は「ぎやうとくしほはまよりのぼとのひかたをのぞむ」「よつや十二そう」「おしをくりはとうつうせんのづ」「くだんうしがふち」「たかはしのふじ」であり、江戸の定番的な名所を描いたものとはいえない。
ただ、この5枚には当時オランダから舶載された油絵や銅版画を、独学で学び日本の材料で描いていた司馬江漢や亜欧堂田善らの油絵や銅版画に、伝統的な木版画の技法で迫ろうとする北斎の執念が込められている。
その執念を5枚の中でも傑作とされる「くだんうしがふち」を見ることによって探ってみよう。
描かれるのは右側に九段坂の下から坂上を望み、左手には江戸城の堀に沿って西を見はるかす景色だ。坂には強烈な陽ざしを思わせるように、人々の影や右端の建物の影が描かれる。この影を描くのは西洋画に影響されたためである。坂の上を望むと、さらにその上にはモクモクと入道雲が立ち上る。その入道雲の表現には灰色の濃淡をす摺り重ね、立体感を出そうという工夫が凝らされている。
坂の左の崖の表現もすごい。板ぼかし(彫口の角を斜めに削るなどした特別な彫りの版木を使って摺る技法)を使って土坡に陰影をつけて量感を出そうとしている。坂上の土坡は、そり立つ壁のように高く表され、急な坂道であることを強調している。そのせいで、土坡の頂上から堀へは90度近い傾斜となっており、非現実的な空間となっている。この九段坂の先に続く道は平坦で、はるか向こうまで続く奥行感がよく表されている。土坡に施された陰影表現は過剰なまでに繰り返され、不気味な土の塊になっている。 「大阪ガスネットワークCEL 安村 敏信」より引用




両淵は水位差を利用し、千鳥ヶ淵から田安門前の水門を通じて牛ヶ淵へ落水させる構造で、水位調整が行われていました。




水戸違い 水位を調整するためのダムの役割を果たす
昭和40年(1965)に玉川上水からの供給が途絶えると、お濠の水は主に雨水依存となり、水質悪化が進みました。
外濠と玉川上水をつなげ東京湾に至る水の流れを形成する外濠浄化に向けた実施計画について 東京都
下記にアクセクすると概要が見られます。
外濠浄化に向けた実施計画を策定|3月|都庁総合ホームページ
https://www.metro.tokyo.lg.jp/information/press/2026/03/2026032721
外濠浄化に向けた実施計画<概要版> 東京都
下記にアクセクすると概要が見られます。
https://www.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/tosei/20260327_20_01
江戸時代の外濠に戻ります。
約10年先ですが導水開通式を見てみたいですね。
赤坂溜池江戸時代風景 浮世絵・古写真




慶長8年(1603)に家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。
慶長11年(1606)に家康に恩義を感じた和歌山藩主浅野幸長が家臣矢島長雲に命じ、赤坂の谷地形を利用して現在の特許庁前交差点附近に堰を造って水をせき止めたのが本格的な溜池の始まりでした。
浅野幸長が家康の命(または働きかけ)を受け手伝普請。
手伝普請とは、豊臣政権や江戸幕府が諸大名に命じ、城郭・河川・堤防・寺社などの大規模な土木・建築工事を分担させた制度です。城普請の場合には天下普請ともいいます。
「溜池」は赤坂見附から虎ノ門に至る「外堀通り」、外堀兼用の上水源でした。
長さ1.4km、幅45m~190mといった大きさで、かなり細長い池でひょうたん池とも呼ばれていました。面積は8万㎡強 サッカー場約12個分。
溜池発祥の碑・碑文
溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと伝われる。
明治8年より埋め立てに着手し44年に完成したが、明治21年12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年に市電が開通し、大正10年5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責)
平成9年8月吉日 東京都 港区 港区赤坂1-1





「絵本江戸土産 葵ヶ岡 溜池」(広重)
溜池の東端の小高い丘が「葵ヶ岡」と呼ばれていました。
「赤坂御門外より山王の宮の麓へ巡る むかし玉川神田の両上水いまだ成就せざる前はこの池水をもて上水にせりとぞ 池中蓮を多く植えて夏月の遊観不忍に亜ものなり」。
「赤坂桐畑 永田馬場 山王社」この辺すべて山水の景地なりといへども 常に見なれて 人是を称することなきぞ遺憾なるべき」とあります。
『江戸名所図絵溜池』の真ん中辺りに「此の辺り桐の木多し」の文字が見えます。
江戸時代初期に、湧き水をせき止めて造られた溜池の、へりを補強するためにたくさんの桐の木が植えられていた。溜池越しに山王大権現(日枝神社)、桐の花が咲く梅雨時の東雲を描いている。
「桐」木材としては最も軽く光沢が出て湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴がある為、建具、桐箪笥や楽器、下駄等特性を活かして使用される。
家紋としても五七の桐を足利尊氏、豊臣秀吉が天皇から賜っている。



堰を越えて流れ落ちる水の音が大きく、「赤坂のドンドン」と呼ばれて、徳川秀忠の時代には、琵琶湖の鮒や京都の淀の鯉を放したり、蓮の花を 植えたりして上野の不忍池に匹敵する江戸名所になり、その眺望は四季を通じて美しかったようです。
明治8年頃(1875年)から本格的に埋立てが始まり、干潟となり広野になっていったようです。「溜池の由来 」 地域 情報TOKYOさんぽから引用




迅速測図をグーグルマップに貼ってみました。江戸時代と現在の様子が大体イメージできます。S=1/4000ですので多少のズレがあります。
『迅速測図』
明治時代初期から中期にかけて大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部によって作成された地図である。
市街化が進む前の枡形や地形が良く残っている段階の陸軍による測量ですので正確な寸法、形態がわかります。
「江戸切絵図」
内藤家横の櫓台と赤坂溜池の堰と上水取り込み口が描かれています。
散策会のご案内です
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次回は神田上水を巡ります。
古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。
『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)
『神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858)
『江戸絵図』正保元年(1644) 『絵本江戸土産』嘉永3年(1850)
『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)
国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用
『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編 1帖 重要文化財
東京国立博物館オープンデータより引用
『江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前控 享保2年(1717)
『神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)
東京都立図書館オープンデータより引用
『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)
『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図』 明治17年 (1884)
国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用
『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用
「江戸一目屏風図」国立歴史民俗博物館ウェブサイトよりのダウンロードを推奨いたします
CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用
Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用
引用表示の無い「古写真」「浮世絵」は『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
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