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「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 28 江戸時代初期の上水・神田上水・玉川上水

江戸城三十六見附。「浅草見附栄螺(さざえ)なら蓋のとこ」と川柳に詠まれた、江戸城の濠の螺旋基点である浅草橋門から出発し、外堀(神田川)沿いに反時計回りに外堀を廻り、そして内堀を同じように反時計回りに歩く予定です。また、見附付近の江戸時代の史跡も見て廻りたいと思います。

今と昔をつなぐ古地図・浮世絵の魅力。

江戸切絵図と浮世絵を照らし合わせて見ていますと、想像力を掻き立てられ江戸城と江戸の町をブラブラと歩いている感じで楽しくなってきます。江戸の暮らしの様子が浮かんでくる様です。

「江戸切絵図」は上がほぼ北向きにしてあります。

江戸時代初期の上水

徳川家康江戸入府

豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅び、秀吉は家康に対し、従来の三河・遠江などから関東への転封を命じます。

徳川家康の江戸入府は、天正18年(1590年)8月1日(旧暦・八朔)、家康が与えられたのは「関八州」(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房・常陸)250万石とされ、江戸城を本拠とすることになりました。

入府当日は、約1万の軍勢を率いて府中から甲州街道、そして現在の虎ノ門を経て江戸に入りました。

「天正18年8月1日」が入府の日とされ、江戸時代にはこの「八朔(はっさく)」を「八朔御祝義」として幕府の祝日とし、大名・旗本が登城して将軍を祝う行事が行われました。

城郭の生命線。そうです水です。

江戸に入城した徳川家康は早速上水道の建設に取り掛かりました。当時の江戸は潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また井戸も塩分が混じった水でした。

小石川上水・千鳥ヶ淵・牛ヶ渕

「小石川上水」は、徳川家康に命じられて江戸に入城する以前から、大久保藤五郎忠行が三ヵ月のあいだに整備した。1590年(天正18年)に小石川を水源として、江戸で最初の上水道です、後に水源を井の頭池などに拡張して「神田上水」へと発展しました。

家康は藤五郎の功績に対して主水という名を与えました。大久保家では「もんど」では水が濁るというので代々「もんと」と名乗りました。

小石川上水の水源や配水経路等について具体的なことはわかっていません。

「千鳥ヶ淵」は文禄元年(1592)頃から、旧・局沢川を半蔵門と田安門の土橋で塞き止めて造られた人造湖で、飲料水や生活用水、濠として利用されました。

「牛ヶ淵」も同様に、武蔵野台地東縁からの湧水や小川を清水門付近でせき止めて、飲料水や生活用水、濠として機能しました。

1653~1654年に玉川上水が完成すると、半蔵門付近などから玉川上水の分岐水がお濠へ供給されるようになり、千鳥ヶ淵・牛ヶ淵の水質維持にも寄与しました。

濠割による人工の濠ではなく、自然の流れを堰き止めた飲料水用貯水池として始まったため、濠と区別して『淵』と名付けられた。

「くだんうしがふち」

葛飾北斎の洋風風景版画の中で最も知られているのは〈平仮名落款〉と俗称される中判の風景版画5枚である。これは、いずれも石垣模様で額縁風に外枠を囲み、書名と題名を平仮名の続け字で書き、それを90度左に倒したものである。そうすると、一見オランダ語風に見えるという北斎の機知がうかがえる。落款は全て「ほくさゐゑかく」で、描かれた風景は「ぎやうとくしほはまよりのぼとのひかたをのぞむ」「よつや十二そう」「おしをくりはとうつうせんのづ」「くだんうしがふち」「たかはしのふじ」であり、江戸の定番的な名所を描いたものとはいえない。

ただ、この5枚には当時オランダから舶載された油絵や銅版画を、独学で学び日本の材料で描いていた司馬江漢や亜欧堂田善らの油絵や銅版画に、伝統的な木版画の技法で迫ろうとする北斎の執念が込められている。

その執念を5枚の中でも傑作とされる「くだんうしがふち」を見ることによって探ってみよう。

描かれるのは右側に九段坂の下から坂上を望み、左手には江戸城の堀に沿って西を見はるかす景色だ。坂には強烈な陽ざしを思わせるように、人々の影や右端の建物の影が描かれる。この影を描くのは西洋画に影響されたためである。坂の上を望むと、さらにその上にはモクモクと入道雲が立ち上る。その入道雲の表現には灰色の濃淡をす摺り重ね、立体感を出そうという工夫が凝らされている。

坂の左の崖の表現もすごい。板ぼかし(彫口の角を斜めに削るなどした特別な彫りの版木を使って摺る技法)を使って土坡に陰影をつけて量感を出そうとしている。坂上の土坡は、そり立つ壁のように高く表され、急な坂道であることを強調している。そのせいで、土坡の頂上から堀へは90度近い傾斜となっており、非現実的な空間となっている。この九段坂の先に続く道は平坦で、はるか向こうまで続く奥行感がよく表されている。土坡に施された陰影表現は過剰なまでに繰り返され、不気味な土の塊になっている。 「大阪ガスネットワークCEL 安村 敏信」より引用

両淵は水位差を利用し、千鳥ヶ淵から田安門前の水門を通じて牛ヶ淵へ落水させる構造で、水位調整が行われていました。

水戸違い 水位を調整するためのダムの役割を果たす

昭和40年(1965)に玉川上水からの供給が途絶えると、お濠の水は主に雨水依存となり、水質悪化が進みました。

外濠と玉川上水をつなげ東京湾に至る水の流れを形成する外濠浄化に向けた実施計画について 東京都

下記にアクセクすると概要が見られます。

外濠浄化に向けた実施計画を策定|3月|都庁総合ホームページ

https://www.metro.tokyo.lg.jp/information/press/2026/03/2026032721

外濠浄化に向けた実施計画<概要版> 東京都

下記にアクセクすると概要が見られます。

https://www.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/tosei/20260327_20_01

江戸時代の外濠に戻ります。

約10年先ですが導水開通式を見てみたいですね。

赤坂溜池江戸時代風景 浮世絵・古写真

 

慶長8年(1603)に家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。

慶長11年(1606)に家康に恩義を感じた和歌山藩主浅野幸長が家臣矢島長雲に命じ、赤坂の谷地形を利用して現在の特許庁前交差点附近に堰を造って水をせき止めたのが本格的な溜池の始まりでした。

浅野幸長が家康の命(または働きかけ)を受け手伝普請。

手伝普請とは、豊臣政権や江戸幕府が諸大名に命じ、城郭・河川・堤防・寺社などの大規模な土木・建築工事を分担させた制度です。城普請の場合には天下普請ともいいます。

「溜池」は赤坂見附から虎ノ門に至る「外堀通り」、外堀兼用の上水源でした。

長さ1.4km、幅45m~190mといった大きさで、かなり細長い池でひょうたん池とも呼ばれていました。面積は8万㎡強 サッカー場約12個分。

溜池発祥の碑・碑文

 溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと伝われる。

 明治8年より埋め立てに着手し44年に完成したが、明治21年12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年に市電が開通し、大正10年5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責) 

平成9年8月吉日 東京都 港区  港区赤坂1-1

「絵本江戸土産 葵ヶ岡 溜池」(広重)

 溜池の東端の小高い丘が「葵ヶ岡」と呼ばれていました。
 「赤坂御門外より山王の宮の麓へ巡る むかし玉川神田の両上水いまだ成就せざる前はこの池水をもて上水にせりとぞ 池中蓮を多く植えて夏月の遊観不忍に亜ものなり」。

「赤坂桐畑 永田馬場 山王社」この辺すべて山水の景地なりといへども 常に見なれて 人是を称することなきぞ遺憾なるべき」とあります。

『江戸名所図絵溜池』の真ん中辺りに「此の辺り桐の木多し」の文字が見えます。

江戸時代初期に、湧き水をせき止めて造られた溜池の、へりを補強するためにたくさんの桐の木が植えられていた。溜池越しに山王大権現(日枝神社)、桐の花が咲く梅雨時の東雲を描いている。

「桐」木材としては最も軽く光沢が出て湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴がある為、建具、桐箪笥や楽器、下駄等特性を活かして使用される。

家紋としても五七の桐を足利尊氏、豊臣秀吉が天皇から賜っている。

堰を越えて流れ落ちる水の音が大きく、「赤坂のドンドン」と呼ばれて、徳川秀忠の時代には、琵琶湖の鮒や京都の淀の鯉を放したり、蓮の花を 植えたりして上野の不忍池に匹敵する江戸名所になり、その眺望は四季を通じて美しかったようです。

明治8年頃(1875年)から本格的に埋立てが始まり、干潟となり広野になっていったようです。「溜池の由来 」 地域  情報TOKYOさんぽから引用

迅速測図をグーグルマップに貼ってみました。江戸時代と現在の様子が大体イメージできます。S=1/4000ですので多少のズレがあります。

『迅速測図』

明治時代初期から中期にかけて大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部によって作成された地図である。

市街化が進む前の枡形や地形が良く残っている段階の陸軍による測量ですので正確な寸法、形態がわかります。

「江戸切絵図」

内藤家横の櫓台と赤坂溜池の堰と上水取り込み口が描かれています。

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次回は神田上水を巡ります。

 

古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

『神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

『江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前控 享保2年(1717)

『神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図』 明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

「江戸一目屏風図」国立歴史民俗博物館ウェブサイトよりのダウンロードを推奨いたします

アメリカ合衆国パブリック・ドメイン・マーク 1.0より引用 

CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用 

引用表示の無い「古写真」「浮世絵」は『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

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「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 27 懸樋・水道橋 2

江戸城三十六見附。「浅草見附栄螺(さざえ)なら蓋のとこ」と川柳に詠まれた、江戸城の濠の螺旋基点である浅草橋門から出発し、外堀(神田川)沿いに反時計回りに外堀を廻り、そして内堀を同じように反時計回りに歩く予定です。また、見附付近の江戸時代の史跡も見て廻りたいと思います。

今と昔をつなぐ古地図・浮世絵の魅力。

江戸切絵図と浮世絵を照らし合わせて見ていますと、想像力を掻き立てられ江戸城と江戸の町をブラブラと歩いている感じで楽しくなってきます。江戸の暮らしの様子が浮かんでくる様です。

「江戸切絵図」は上がほぼ北向きにしてあります。

神田上水懸樋・水道橋 2

神田川通絵図(かんだかわとおりえず)

巻頭に天明五巳年三月とあり、図中、昌平橋近くの鳳閣寺に寛政11年に所替となった旨の書き入れがあり、およその作成時期がわかる。牛込御門から大川(柳橋)まで、神田川とその左岸河岸地沿いの屋敷地区画、名称を記す。河岸を公儀・武家・請負人・町方入用別として色分で表示する。縮尺判定のきめ手を欠くが、1分1.5間(1:900)か。27.2㎝幅の料紙に流路を収めるため、途中2か所に断裂部を設け、方向転換する。内藤耻叟旧蔵。 ( 国立国会図書館デジタルコレクション)

神田上水懸樋跡・説明板

江戸時代この辺りには、江戸の上水の一つである神田上水が通り、また神田川を越えるための懸樋が設けられていました。神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれます。徳川家康は、江戸への入府に先立って家臣の大久保藤五郎に上水の開鑿を命じ、大久保藤五郎は慶長年間(1596~1615)に神田上水の整備に着手します。井の頭池・善福寺池・妙正寺池からの水を集めて現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し、余水は神田川として流しました。上水は、小日向台から小石川後楽園を通り、神田川に達します。神田川を越えるため、水道橋の少し下流から、この辺りへ懸樋で渡したといいます。上水は、この先は埋樋で供給されました。供給範囲は、南は京橋川、東は永代橋より大川(隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋外までといわれます。この一帯は埋め立てられた場所が多く、井戸を掘っても良い水が得られなかったようです。懸樋は、万治年間(1658~1661)に架け替えられたため、俗に万年樋と呼ばれました。  昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会

「正保年中江戸絵図」(1644~1647)では吉祥寺とその前に橋が架かっています。こちらの橋は江戸時代の初期には、吉祥寺橋または寺橋と呼ばれていました。

明暦3年(1657)の明暦の大火(振袖火事)で江戸本郷元町にあった吉祥寺の門前町が焼失。江戸幕府は同地を大名屋敷として再建することにした。そのため、吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を失った者達に対し、代地と、5年期限で扶持米を与えて家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募り、五日市街道沿いに移住開発させた(現在の吉祥寺)。当地に吉祥寺という名の寺院が所在したことはない。

吉祥寺は駒込に移転。『正保年中江戸絵図』(1644-1647)国立公文書館デジタルアーカイブから引用

経蔵 区指定有形文化財(建造物)

 江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所(栴檀林)として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の礎石をもとに、1804年(文化元年)古いきまりによって再建したものと考えられる。

 旧経蔵は、1686年(貞享3年)に建造し、1778年(安永7年)に焼失と伝えられる。1933年(昭和8年)に大修復を行った。

 屋根は、桟瓦葺、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠をのせた「二重宝形造り」である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術に粋をこらしたみごとなものである。

 蔵内に、経典を収蔵する八角形の転輪蔵がおかれている。建造物としての価値とともに、東京都内に残る江戸時代建造の唯一の経蔵として貴重である。

 文京区教育委員会 平成8年(1996)3月

寺が移転した後、橋の下流に「神田上水」の懸樋があったことから、「水道橋」という名が定着しました。寛文12年(1670)の江戸図には既に「水道橋」と表記されています。

市兵衛河岸・説明板

河岸とは、物資輸送のために水ぎわに作られた物揚場(ものあげば)などの施設のことである。この河岸の名は、江戸時代の中頃まで、現在の後楽2-1-18あたりに“岩瀬市兵衛”の屋敷があったことによる。市兵衛河岸は飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸切絵図にもこの名が見える。

 この河岸は、昭和8年まで現在の後楽園遊園地一帯にあった“砲兵工廠”の荷揚場(にあげば)としてにぎわった。明治時代、この河岸から早船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともあった。町名としての市兵衛河岸は、昭和39年住居表示の施行により、後楽1丁目となり、この名は消滅した。 東京都文京区教育委員会 平成元年3月

現在でも防災船着場として利用されている

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次回は徳川初期の上水・神田上水・玉川上水を巡ります

 

古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

『神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

『江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前控 享保2年(1717)

『神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図』 明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

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アメリカ合衆国パブリック・ドメイン・マーク 1.0より引用 

CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用 

引用表示の無い「古写真」「浮世絵」は『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

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「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 26 懸樋・水道橋

江戸城三十六見附。「浅草見附栄螺(さざえ)なら蓋のとこ」と川柳に詠まれた、江戸城の濠の螺旋基点である浅草橋門から出発し、外堀(神田川)沿いに反時計回りに外堀を廻り、そして内堀を同じように反時計回りに歩く予定です。また、見附付近の江戸時代の史跡も見て廻りたいと思います。

今と昔をつなぐ古地図・浮世絵の魅力。

江戸切絵図と浮世絵を照らし合わせて見ていますと、想像力を掻き立てられ江戸城と江戸の町をブラブラと歩いている感じで楽しくなってきます。江戸の暮らしの様子が浮かんでくる様です。

「江戸切絵図」は上がほぼ北向きにしてあります。

神田上水懸樋・水道橋

城郭の生命線。そうです水です。

江戸に入城した徳川家康は早速上水道の建設に取り掛かりました。当時の江戸は潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また井戸も塩分が混じった水でした。

1590年(天正18年)、井の頭池を水源とし中流域に石堰(目白下大洗堰)を作って海水の遡上を防ぎ、下流への高低差を確保しました。「江戸川」と呼ばれていました。

目白下(文京区関口大滝橋付近)に川の本流から水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)を通った後に懸樋や伏樋(地中の水道)により現在の本郷、神田から南は京橋付近まで水を供給した。石堰から下流は江戸川(旧・平川)と呼ばれた。

井之頭池は古くは狛江といわれ、かつては湧水口が七ヶ所あったことから「七井の池」と言われていました。

「江戸一目図屏風」(岡山県指定重要文化財) 

鍬形蕙斎(くわがた けいさい)が、文化6年(1809)に描いた江戸の景観図である。画面中央に江戸城を置き、その背後には富士山、そして左に江戸湾、下方に隅田川を配するなど、隅田川東部の上空から鳥になって江戸の町を見渡したような俯瞰図として、極めて写実的に見えるように描かれている。 津山郷土博物館説明文より引用

寛政6年(1794年)5月26日、31歳で津山藩の御用絵師(大役人格、10人扶持、別に絵の具料3両支給)となり、鍬形蕙斎紹真(つぐざね)と称した。

「江戸一目屏風図」国立歴史民俗博物館ウェブサイトよりのダウンロードを推奨いたします。

浮世絵、古写真で楽しむ懸樋、水道橋

神田上水懸樋は万治年間(1658年〜1661年)、長さ約33.6m、内寸は幅181cm、深さ15cm、銅張葺き屋根に新しく架け替えられ、以降は万年樋とも呼ばれるようになっていました。懸樋自体は木製の木樋が主に使われ、腐食しやすいため十数年ごとに掛け替えられていました。

この懸樋は、明治34年(1901)まで江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として大きな役割を果たしました。

懸樋の横にある建物は水番所(上水の水量や汚れを監視する)です。水番人は、副業が認められ鰻屋「もりやま」を営んでいました。かば焼きを食べる様子や人と同じ位の行灯看板が描かれています。

江戸時代にはこの辺りで鰻が捕れたのですね。

水道橋 右の川上に神田上水の筧をかけられ 猶 其川上の橋をかく呼ぶは水道筧のある故になるべし 橋より内を小川町と唱へ 外をば小石川と呼ぶ

                         以外と浅かった。

広重 大傑作!!! 富士のお山より大きい画面を覆い尽くすかのように鯉のぼりを描く極端なまでの遠近法の大胆奇抜な構図。ヒロシゲブルーと言われる青、藍色の配色。摺った絵が欲しいですね。

本郷台地から神田川に架かる水道橋越しに駿河台の町を見下ろしています。旗本や御家人が住む武家屋敷が広がり方々で吹き流しや幟旗、魔除けの鍾馗の幟、鯉のぼりが見られるます。

火の見櫓、左手の端には江戸城北ノ丸が描かれています。澄み切った空気の中、富士の姿が見えます。

端午の節句には武家屋敷は家紋の幟や吹き流し、鍾馗の描かれた幟などを掲げていた。これらは武家の習わしで、鯉のぼりを上げるのは町人の文化でありました。

では何故武家屋敷街に鯉のぼりが見られるのか?

神田川沿いにある三崎稲荷の鯉のぼりと思われます。

「名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿」広重のデフォルメ作をもう一作。

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次回は神田上水懸樋・水道橋 2

 

古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

『神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

『江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前控 享保2年(1717)

『神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図』 明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

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「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 25 駿河台・お茶の水

駿河台(西)・説明板

高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。

さて、家康が駿府で没した後、家康付を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。

江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛、また、幕末には勘定奉行や軍艦奉行を勤めた小栗上野介忠順などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明男爵邸、坊城俊長伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。

明治五年(1872年)に新たに定められたこの地域の町名は、駿河台西紅梅町、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台袋町、駿河台鈴木町(いずれも神田区)でした。関東大震災後の区画整理が終わった昭和八年(1933年)に現在の駿河台一丁目、駿河台二丁目に町名が変更され、昭和二十二年(1947年)に千代田区となってからもこの地名で親しまれています。

町名由来板 設置年月日:平成16年3月25日 所在地:神田駿河台二丁目3番地

瀬替え

天下普請による瀬替え

第二代将軍徳川秀忠の時代には、旧・平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われた。1620年(元和6年)、秀忠の命を受け、仙台藩祖の伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの開削を担当した。小石川見附門から東に神田山を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在の御茶の水に人工の谷(茗渓)を開削した。このため、この区間は特に「仙台堀」あるいは「伊達堀」とも呼ばれる。本郷台地の東では旧石神井川の河道を流れる小河川と合流させて真東に向かい、現在の浅草橋や柳橋の東で隅田川に合流させた。開削当初の「仙台堀」は川幅が狭く洪水を解消する機能にも事欠いたが、幕府は河川舟運に供するため拡幅するよう仙台藩第4代藩主伊達綱村に命じ、1660年(万治3年)より拡幅工事がなされた。この拡幅された掘割から河口までを神田川と呼んだ。広く開削された旧・平川を舟運が船河原橋(ほぼ現在の飯田橋)まで通じるようになった。

一方、小石川見附門から南流する旧・平川は現在の九段下付近まで埋め立てられて神田川と切り離され堀留となった(元飯田町堀留)。かつての外濠から内濠となったこの堀留は飯田川とも呼ばれ、道三堀からの舟運を導いて河岸も建っていた。しかしその後も川の氾濫は頻発し、開削した神田川と、谷田川や大川(隅田川)と重なり日本橋地域から江戸城下を氾濫させていたため、筋違橋御門から下流の神田川南岸に築土して(柳原土手)城下を守った。

お茶の水石碑・碑文

聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげたり神田川堀割の時ふちになり◇水際に形残る

享保十四年江戸川拡張の後川幅をげられ擴げられし時川の中になりて今もその形もなし           

                             「再校江戸砂子」より

慶長の昔、この辺り神田山の麓に高林寺という禅寺があったあるとき 寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところお茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。

それから毎日この水を差し上げる様になりこの寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この辺りをお茶の水と云うようになった。

其の後茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった。時代の変遷と共に失われて行くその風景を惜しみ心ある人たちがこの碑を建てた。

お茶の水保勝会 坂内熊治 高林寺 田中良彰 昭和三十二年九月九日

この湧き水は、江戸時代の神田川の工事により湧き出したものと思われます。

一口(いもあらい)太田姫神社

社伝によると、室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都東一口の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457年)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。

徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606年)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとり(南側・右岸)(東京都千代田区神田駿河台四丁目、後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。

一口を何故いもあらいと読むか

諸説あるなかの一つですが、次のようなものがあります。

京都府南部に位置する久世郡久御山町に存在した「巨椋池」のほとりにあった小さな村は、三方が池に面していたため、村の出入口は、一か所のみだで、それが「一口」の起源となったという。また、その池は、古くは「いも」と呼ばれていた「疱瘡(天然痘)」を洗う(治す)ために使われた池だったことから、「疱瘡を洗う」という言い回しが、「いもあらい」となった。そしていつの頃からか、その村は、「一口」と書いただけで「いもあらい」と呼ばれるようになり、それがそのまま、地名として定着したという説が有力視されています。

現在の太田姫稲荷神社

明治5年(1872年)、村社に定められ、名も太田姫稲荷神社と改めた。大正12年(1923年)の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難したが、昭和3年(1928年)に再建された。昭和6年(1931年)に、御茶ノ水駅の総武線拡張により、現在地に遷座した(千代田区 神田駿河台1-2)。淡路坂上の旧社所在地で御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られている。

淡路坂

淡路坂・標柱

江戸時代、坂の上には鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられました。また、屋敷の道をはさんだ向かい側には太田姫稲荷がありましたが、別名の一口稲荷にちなんで一口坂とも呼ばれていました。

ニコライ堂(定火消秋山主殿屋敷跡)

ニコライ堂の通称で親しまれている「東京復活大聖堂」は、伝道のためにロシアから日本へ渡ったニコライが1872年9月神田駿河台にあった定火消秋山主殿の役宅跡地を購入、1884年着工、1891年竣工。

ニコライ・カサートキン日本大主教

神学校在学中、ロシア海軍少佐ヴァンシーリー・ゴロヴァーニンの著した『日本幽囚記』を読んで「高田屋嘉兵衛」を知り、以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになり幕末の函館にやってきた。函館で沢辺 琢磨(坂本龍馬血縁)(新島襄が米国へ密航するときの手助けをしたという)に洗礼を与える。日本人初の司祭になりました。

明治5年1月(1872年2月)に上京。ニコライ堂明治24年(1891)竣工。

波瀾万丈のドラマです。小説になりますね。

ジョサイア・コンドル氏の設計

ニコライ堂は、正教会でカトリックでも、プロテスタントでもないのです。ハリストスに始まる、初代教会の信仰を正しくそのまま継承してきた教会です。

ビザンチン様式の教会建築。ロシア人ミハイル・シチュールポフ基本設計。実施設計、東京大学建築学科初代教授ジョサイア・コンド。

リトアニア領事館領事代理としてユダヤ人にビザを発行したことで知られる杉原千畝は正教徒でありました。作曲家・金須嘉之進は正教徒であり、ニコライ堂の聖歌指揮を務めた。その門下には『ニコライの鐘』を作曲した作曲家・古関裕而がいました。

八端十字(はったんじゅうじ)といって日本では珍しいロシアンクロスです。8箇所の先端部分があります。

キリストが処刑される時に、ゴルゴダの丘に背負って行った十字架がこの八端十字架であったといわれています。あの伝説のスナイパーゴルゴ13はゴルゴダから名前をつけたようです。

甲賀坂

甲賀坂・標柱

甲賀町にあることから甲賀坂と名付けられました。町名は、甲賀組が多く居住していたからとも、かつてこの地に光感寺があり、それがなまって甲賀になったとも言われています。1933年(昭和8年)に甲賀町は駿河台一丁目、三丁目になっています。

小栗上野介忠順屋敷跡

小栗上野介忠順(ただまさ)

文政10年 〜 慶応4年閏4月6日(1827年 〜 1868年5月27日)

別称 又一、豊後介

父は新潟奉行小栗忠高。安政6(1859)年目付となり、翌万延元(1860)年日米修好通商条約批准書交換使節の一員として渡米した。帰国後は勘定奉行、軍艦奉行等を務め、横須賀製鉄所建設、関税率改訂交渉、軍制改革などの任にあたり、動乱期の困難な幕府財政を支えた。戊辰戦争に際し強硬な抗戦論を主張して罷免され、所領地の上州群馬郡権田村に隠棲したが、新政府軍により捕縛、処刑された。

平川門、徳川御三卿の田安・一橋・清水の各徳川家の登城口であった。奥女中の通用門として「御局御門」、死者、罪人や下肥をここから運び出したことから「不浄門」の名も持つ。

三代将軍・家光の乳母であった「春日局」が、門限に遅れて締め出しを食い、門前で一夜を明かしたという。この時の番士は「小栗又一郎」という旗本で、よく役目を守ったとして、500石の加増を受けたそうです。この「小栗又一郎」の子孫が、幕末に活躍した「小栗上野介忠順」です。当時の番士と、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した幕末の切れ者である「小栗上野介」が繋がってくるとは、歴史は面白いですね。

大久保彦左衛門屋敷跡 杏雲堂病院の植え込みにあります。

大久保陣屋跡・案内板

 この八百富社は、大久保彦左衛門の陣屋跡である。

 大久保氏は、もと宇都宮氏を称したが、彦左衛門の父・忠員(ただかず)の時から大久保を称した。大久保氏は三河普代中でも、岩津普代と呼ばれる最も由緒ある家柄で、父祖代々、一族を挙げて徳川氏に仕え、徳川幕府成立のために忠勤を励んだ。

 彦左衛門忠教は、父・忠員の八男で、大久保一族とともに各地を転戦、慶長十九年(1614)家康の直参に取り立てられたが、知行はわずかに坂崎における千石であった。その後、寛永元年(1624)千石の加増をうけ、竜泉寺、桑谷、羽栗などを領した。

大久保陣屋跡・八百富社 愛知県額田郡幸田町坂崎字御屋敷10

俗に「天下のご意見番」として名高い。彦左と一心太助のコンビで多くの映画が制作されました。

『三河物語』の著者

『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保彦左衛門忠教による著作。

戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。

「ウィキペディア(Wikipedia)」より引用

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次回は神田上水懸樋・水道橋を巡ります

 

古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

『神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

『江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前控 享保2年(1717)

『神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図』 明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

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アメリカ合衆国パブリック・ドメイン・マーク 1.0より引用 

CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用 

引用表示の無い「古写真」「浮世絵」は『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

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「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 24 昌平橋から聖堂、神田明神

昌平橋から聖堂、神田明神

史跡湯島聖堂・案内板

史跡湯島聖堂 YUSHIMA SEIDO 孔子廟 、神農 廟と昌平坂学問所 跡

SHRINE OF CONFUCIUS, SHRINE OF SHINNO AND THE SITE OF SHOHEIZAKA COLLEGE

・所在地 東京都文京区湯島一丁目4番25号 ・敷地面積 13,915m

・国の史跡指定 大正 11 年(1922)3月8日 ・国有財産 文化庁 ・東京都教育委員会

・文京区教育委員会 ・管 理 者 公益財団法人斯文会(しぶんかい)

■湯島聖堂と孔子  孔子 は、2500年ほど前、中国 の善の冒平 郷(現山東省済寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教 」は東洋の人々に、大きな影響を与えた。儒学 に傾倒した徳川 五代将軍綱吉 は、元禄 3年(1690)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら『論語』の講釈を行うなど学問を奨励した。

■昌平坂学問所跡 寛政 9年(1797)幕府は学舎 の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平愛ともいう)を開いた。

学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代 の文教センターの役割を果たした。

学問所教官としては、柴野栗山 、岡田実泉 、尾藤二洲 、古賀精里 、佐藤一斎 、安積民商、慶谷宮陰、安井息軒 、芳野金陵 らがおり、このうち佐藤一斎、安積良畜らはこの地が終焉の地となっている。

■近代教育発祥の地 明治難新 により聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871)に文部省 が置かれたほか、国立博物館 (現東京国立博物館・国立科学博物館 )、師範学校 (現筑波大学 )、女子師範学校(現お茶の水女子大学 )、初の図書館 「書籍館 」(現国立国会図書館 )などが置かれ、近代教育発祥の地となった。

■現在の湯島聖堂もとの聖堂 は、4回の江戸大火 に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正12年(1923) 関東大震災 で焼失した。その後「仮聖堂」を営み、昭和10年(1935) 鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門 は宝永 元年(1704)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。

湯島聖堂の周囲に連なる築地塀 瓦と突き固めた土を七三の割合で交互に重ねてあり美しく見えます。

聖堂は関東大震災で焼失してしまいその後鉄筋コンクリート造で再建されました。この「入徳門」だけは宝永元年(1704)に創建されたものがそのまま残っております。

楷樹 の由来・説明板

楷 かい 学名 とねりばはぜのき うるし科 PISTACIA CHINENSIS BUNGE

楷は曲阜 にある孔子 の墓所に植えられている名木で 初め子貢が植えたと伝えられ 今日まで植えつがれてきている。 枝や葉が整然としているので 書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。

わが国に渡来したのは、大正4年(1915)、林学博士 白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。

これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが 生来雌雄異株であるうえ 花が咲くまでに三十年位もかかるため わが国で種子を得ることはできなかったが 幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので 今後は次第に孫苗が増えてゆくと思われる。

中国ではほとんど全土に生育し 黄連木 黄連茶 その他の別名も多く 秋の黄葉が美しいという台湾では燭心木とよばれている 牧野富太郎博士はこれに孔子木と命名された

孔子と楷とは離すことができないものになっているが 特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える

昭和四十四年巳酉秋日 矢野一郎 文 平成二十年戊子秋日 松川玉王 書

江戸総鎮守神田明神 神田神社御由緒・説明板

御祭神

 一の宮 大己貴命 おおなむちのみこと (だいこく様)

 二の宮 少彦名命 すくなひこなのみこと (えびす様)

 三の宮 平將門命 たいらのまさかどのみこと (まさかど様)

 正式名称・神田神社。東京都心一〇八町会の総氏神様で、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として、青果市場・魚市場の人々からもあつく崇敬されております。縁結び、商売繁昌、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。

 当社は、天平二年(七三〇)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・將門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府から江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。さらに、明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。

 境内には、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の御社殿(国指定登録文化財)や、総檜造の隨神門、神札授与所・参拝者待合室・休憩所を兼ねた鳳凰殿、明神会館・資料館・石造日本一の大きさを誇るだいこく様尊像・えびす様尊像・江戸国学発祥の地碑・銭形平次の碑などがございます。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行われております。

 当社の祭礼・神田祭は二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭、江戸三大祭のひとつにも数えられております。現在は鳳輦・神輿をはじめとする江戸時代さながらの祭礼行列が、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内の広大な氏子一〇八町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約二〇〇基が町を練り歩き、神社へ迫力ある宮入をする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。 平成十九年春 神田神社社務所

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。

銭形平次碑・碑文

 銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。

 平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。

 此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、緑りの明神下を見下ろす地に建立された。石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。

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『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

『神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

『江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前控 享保2年(1717)

『神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図』 明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

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CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

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「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 23 上野寛永寺現存黒門(円通寺)

回向院

小塚原の刑場跡・説明板

小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町辺りから移転してきたといわれています。間口60間(108m)、奥行30間余(54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけでなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。 平成20年3月荒川区教育委員会

回向院・説明板

回向院は、寛文七年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当寺は常行堂と称していた。

明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川順庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に解体新書を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、対象11年に観臓記念碑が建立された。(荒川区教育委員会)

観臓記念碑・碑文

「一七七一年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に、『解体新書』五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで これから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。さきに一九二二年奨進医会が「観臓記念碑」を本堂裏に建てたが、一九四五年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建て直した。

安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。

円通寺

 百観音円通寺・説明板
 延暦10年(791)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、この辺りを小塚原とよぶようになったという。
 江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政2年(1855)の大地震で倒壊した。
 境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁4年(1296)銘を始めとする板碑4基(区指定文化財)などがある。  荒川区教育委員会

旧上野の黒門・標柱
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
 旧上野の黒門
この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊氏の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九○七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。

彰義隊士の墓・説明板
 慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる彰義隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。  荒川区教育委員会

建立時、まだまだ彰義隊という名称を出すのを憚れる時勢であったため「戦死墓」とのみ記載されている。
明治37年5月15日に榎本武揚らの手によって建立。墓碑銘は榎本武揚書。

彰義隊関係追弔碑群・標柱 荒川区文化財
 彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群が、令和3(2021)年に荒川区文化財に指定され、それに伴い標柱が設置されました。

旧幕臣たちによって建立された墓碑を含む彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群。慶応四年(一八六八)五月十五日の上野戦争直後に、当時の円通寺住職武田仏磨が、官軍に敗れて戦場に放置された彰義隊士の遺体を現地で火葬し、遺骨を円通寺に持ち帰って供養した。その際、彰義隊戦死者墓が建立され、彰義隊供養の拠点となった。以降、この墓塔の周囲に戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑が建立、あるいは他所から移設され、彰義隊ゆかりの寺としての景観が形成されていった。

吉展地蔵尊
 昭和38(1963)年に起きた「吉展ちゃん事件」の被害者の供養のため、被害者の遺体が見つかった円通寺に、近隣住民の基金によって建てられた「吉展地蔵尊」が祀られています。

几号水準点

明治時代、内務省が高低測量をおこなった時の水準点です。
1876年(明治9年)、内務省は東京霊岸島から宮城県塩釜まで水準測量を実施しました。この事業は、イギリス人測量技師などの指導のもとに実施されたことから、水準点にはイギリスで使用している「不」の字に似ている記号が採用されました。これを几号水準点と呼んでいます。 「几」の字は「つくえ、物をのせる台」という意味とされています。 水準点を使う際に、几号水準点の横棒の溝に金属製の台(ベンチ)をひっかけて、ベンチ上に標尺を載せて測量するためで、水準点のことを「ベンチマーク」(=几号)ということにつながります。 この標識は、建物、鳥居などの石造物に彫刻したものが数多く残っています。
国土地理院ホームページより引用
図のように掘られた几号に専用の器具をつけるとベンチのようになり、ベンチマークと言います。パソコンの性能測定のベンチマークテストの語源ともなっています。

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次回は昌平門からお茶の水を巡ります

 

古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

『神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

『江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前控 享保2年(1717)

『神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図』 明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

「江戸一目屏風図」国立歴史民俗博物館ウェブサイトよりのダウンロードを推奨いたします

アメリカ合衆国パブリック・ドメイン・マーク 1.0より引用 

CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用 

引用表示の無い「古写真」「浮世絵」は『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。また過去の記事と写真、文章の重複する部分があります。ご容赦ください。 

 

「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 22 芭蕉庵址 「奥の細道」

松尾芭蕉像

「奥の細道」矢立初めの地

矢立とは、筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具で、旅行記を書き始めることが矢立初めです。

「千住大橋吾妻橋 洪水落橋之図」(明治18年・1885、二代歌川国明画、版元:鎌田在明、大判錦絵三枚続)で、明治18年の水害について描かれている。

 同年7月の暴風雨で千住大橋の中央が崩れ落ちてしまい、流された架橋が下流の吾妻橋の架橋に衝突して吾妻橋も崩れてしまう。その吾妻橋は水防組の努力で遠めに引き寄せられたため、その下流の厩橋が守られた。

 本図では、壊れた橋を引き寄せる水防組の人々と、その左には厩橋が見える。

伊達政宗伝説の高野槙橋杭

文禄の架橋から425年の間、何度かの水害による流失や修理、架け替えが行われてきましたが、最初の橋の杭は伊達政宗寄進の「高野槙」であると伝えられ、江戸時代の雑記や、古川柳「伽羅よりもまさる、千住の槙の杭」などで知られています。この江戸時代の橋杭がいまだ川床に残っているとの話が千住の町に伝わっておりました。平成15年6月19日 古老の船頭の話から、東京都河川部が調査を行い現千住大橋下に3本の高野槙の木杭がいまだ眠っている事が確認されました。その際木片を採取し分析した結果、材質は高野槙であることが判明しました。まさしく伝説通りとなったわけです。現在もこの高野槙橋杭3本は川床にありその目印として朱色のブイが結ばれその位置を確認できます。  「ウィキペディア(Wikipedia)」より引用

コウヤマキ科の常緑針葉樹。かつては北半球に広く分布し化石も見付かっているが、現在では日本にのみ残るため日本固有の樹木とされる。

材は耐水性に優れ、橋脚(橋杭)、船舶、現代でも建築や器具(碁盤、将棋盤、風呂桶など)に、樹皮は船舶や桶などの水漏れを防ぐ「槙肌」に使われる。 


芭蕉庵址

杉山杉風は、日本橋小田原町に住む幕府の御用魚問屋で、深川万年橋近くに魚の生簀を所有しており、その番屋を芭蕉に貸与えたようです。芭蕉(その当時の俳号は桃青)が、この番屋に移り住んだのは1680年であり、翌年1681年に芭蕉の株を、門人李下から贈られたことから芭蕉庵と呼ばれたと言われています。俳号「芭蕉」の誕生です。この最初の芭蕉庵は、1682年の八百屋お七の火事で焼失し、翌年(1683年)に再建されました。芭蕉の死後(1694年)、芭蕉庵のある地は武家地ちとなりました。江戸切絵図(1849年版)の本所深川絵図には、万年橋際の松平家の中に「芭蕉庵古跡が庭中にあり」との記載が残されており、おおよそ芭蕉稲荷付近だったようです。

「ばせを植て まづにくむ萩の 二葉かな」

 上の絵で、隅田川が右上から左下に流れており、右下の川は小名木川です。また、正面の大きな橋が新大橋で、右手前の橋が萬年橋です。萬年橋の袂に幟が見えますが、それが正木稲荷かと思われます(二つ見える屋根の右側)。

「新大橋の長さ百間、両国橋の下にあり。その傍なる万年橋の柾の稲荷は霊験あり。此の辺四方に気色を備えて見所もまた多し」とあります。

芭蕉旅立ち 採荼庵(さいとあん)さいとあんより舟に乗り隅田川を上る

千住大橋で舟を下りる

「奥の細道」

「月日は 百代の過客にして 行きかふ年も又 旅人なり」

「月日は永遠の旅人であり、やって来ては過ぎてゆく年もまた旅人である」の意。8世紀の中国、唐の詩人、李白の「春夜宴桃李園序」の「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」をふまえたもの(「そもそも天地はあらゆるものを泊める宿屋であり、時の流れは永遠の旅人である」の意)   「ウィキペディア(Wikipedia)」より引用

江戸、旅立ち

元禄2年(1689、綱吉時代)春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う。

「草の戸も 住み替はる代よぞ 雛の家」

3月27日 明け方、採荼庵(さいとあん)さいとあんより舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠む。

矢立の初め

「行く春や 鳥啼なき魚の 目は泪」

日光

4月1日 下野国日光(現、栃木県日光市)

「あらたふと 青葉若葉の 日の光」

黒羽 雲巌寺 光明寺

4月4日 黒羽(栃木県大田原市)を訪れ、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪

4月5日 雲巌寺に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねる。

「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」

4月9日 修験光明寺に招かれて行者堂を拝する。

「夏山に 足駄を拝む 首途哉」

那須 温泉神社 殺生石

4月19日 温泉神社(栃木県那須町)に那須与一を偲び、殺生石を訪ねる。

「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす」

白河の関

4月20日 陸奥国白河(福島県白河市)

「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」

飯坂の里

5月2日 飯坂(福島県福島市飯坂町)

「笈も太刀も 五月に飾れ 紙幟」

多賀城

5月4日 多賀城(宮城県多賀城市)、壺の碑(多賀城碑)を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしたという。

松島

5月9日 歌枕松島(宮城県宮城郡松島町)

芭蕉は美観に感動したあまり「いづれの人か筆をふるひ詞ことばを尽くさむ」と自らは句作せず、代わりに曾良の句を文末に置いた。
「松嶋や 鶴に身をかれ ほとゝぎす」 曾良

平泉

5月13日 藤原3代の跡を訪ねて平泉(岩手県西磐井郡平泉町)にて。

「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」

「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。

「夏草や 兵つはものどもが 夢のあと」

「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」 曾良

「五月雨の 降り残してや 光堂」

光堂(金色堂)は拝観したが、経堂は別当不在により開帳しなかったと伝えられる。

尿前の関

5月14日 尿前(宮城県大崎市)

「蚤虱 馬の尿する 枕もと」

(実際には尿前の関より先の堺田にあった「封人の家」で作られた)

尾花沢

5月17日 出羽国尾花沢(山形県尾花沢市)、旧知の豪商、鈴木清風を訪ねる。

「涼しさを 我宿にして ねまる也」

「這出よ かひやが下の ひきの声」

「まゆはきを 俤おもかげにして 紅粉べにの花」

山形領 立石寺

5月27日 立石寺(山形市山寺)にて。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

この句は始め「山寺や 石にしみつく 蝉の声」

後に「さびしさや 岩にしみ込 蝉の声」でしたが

「奥の細道」執筆のさいに更に改められ名句が完成しました。

芭蕉の句は推敲を重ね重ねて完成された名句が多いそうです。

新庄

5月29日 最上川の河港大石田(山形県大石田町)での発句

「五月雨を あつめて涼し 最上川もがみがわ」を最上川を舟で下り改め、

「五月雨を あつめて早し 最上川もがみがわ」

出羽三山

6月5日 羽黒山にて。

「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」

6月6日 月山にて。

「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」

6月7日 湯殿山にて。

「語られぬ 湯殿にぬらす 袂たもとかな」

鶴岡

6月10日 鶴岡(山形県鶴岡市)にて。

「珍しや 山をいで羽の 初茄子び」

酒田

6月14日 酒田(山形県酒田市)にて。

「暑き日を 海にいれたり 最上川」

「あつみ山や 吹浦かけて 夕すヾみ」

象潟

6月16日 象潟きさがた(秋田県にかほ市)は松島と並ぶ風光明媚な歌枕として名高かった。象潟(原文では象泻)を芭蕉は「俤おもかげ松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象泻は憾むうらむが如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり。」と形容した。

「象潟や 雨に西施せいしが ねぶの花」

「西施は中国春秋時代の美女の名。

「汐越しおこしや 鶴はぎぬれて 海涼し」

越後 出雲崎

7月4日 越後国出雲崎いずもざき(新潟県出雲崎町)での句。

「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」

市振の関

7月13日 親不知おやしらずの難所を越えて市振いちぶり(新潟県糸魚川市)の宿に泊まる。

「一家ひとつやに 遊女もねたり 萩と月」

越中 那古の浦

7月14日 越中国那古の浦(富山県射水市)数しらぬ川を渡り終えて。

「わせの香や 分入わけいる右は 有磯海ありそうみ」

金沢

7月15日(陽暦では8月29日)から24日 加賀国金沢(石川県金沢市)城下の名士達が幾度も句会を設ける。蕉門の早世を知る。江戸を発って以来、ほぼ四ヶ月。曾良は体調勝れず。急遽、立花北枝が供となる。

「塚も動け 我泣聲わがなくこえは 秋の風」

「秋すゝし 手毎てごとにむけや 瓜天茄うりなすび」

  当地を後にしつつ途中の吟

「あかあかと 日は難面つれなくも 秋の風」

小松

7月25日から27日 山中温泉(石川県加賀市)から戻り8月6日から7日 懇願され滞在長引くも安宅の関記述なし。

「しほらしき 名や小松吹 萩すゝき」

加賀 片山津

7月26日 小松(石川県小松市)、『平家物語』(巻第七)や『源平盛衰記』も伝える篠原の戦い(篠原合戦)、斎藤実盛を偲ぶ。

「むざんやな 甲の下の きりぎりす」

山中温泉

7月27日から8月5日 大垣を目前に安堵したか八泊、和泉屋に宿する。

「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」

曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云う所にゆかりあれば、先立ちて行に

「行行ゆきゆきて たふれ伏ふすとも 萩の原」  曾良

と書き置たり。

「今日よりや 書付消さん 笠の露」

小松 那谷寺

8月5日 小松へ戻る道中参詣、奇岩遊仙境を臨み。

「石山の 石より白し 秋の風」

大聖寺 熊谷山全昌寺

8月7日 前夜曾良も泊まる。和泉屋の菩提寺、一宿の礼、庭掃き。

「庭掃にわはきて 出いでばや寺に 散柳ちるやなぎ」

「終宵よもすがら 秋風聞や うらの山」 曾良

越前 吉崎

8月9日 「この一首にて数景尽たり」 蓮如ゆかり越前国吉崎御坊(福井県あわら市)の地。

「終宵よもすがら 嵐に波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松」  西行

松岡 天龍寺

8月10日 金沢から供とした立花北枝とここで別れる。

「物書て 扇引さく 余波哉」

敦賀

8月14日、夕方、敦賀(福井県敦賀市)に到着。仲哀天皇の御廟である氣比神宮に夜参する。美しい月夜であった。遊行二世上人のお砂持ちの故事にちなんで。

「月清し 遊行ゆぎょうのもてる 砂の上」

8月15日、北国の日和はあいにくで、雨が降り、十五夜の名月は見れず。

「名月や 北国日和ほっこくびより 定めなき」

8月16日、西行の歌にもある「ますほの小貝」を拾おうと、船で色ヶ浜へ向かう。

「寂しさや 須磨すまにかちたる 浜の秋」

「波の間まや 小貝にまじる 萩はぎの塵ちり」

大垣

8月21日頃、美濃国大垣(岐阜県大垣市)に到着。門人たちが集い労わる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。

結びの句

「蛤はまぐりの ふたみにわかれ 行く秋ぞ」

 五年後大坂の門人たちが仲たがいをしているということで、仲裁のために大坂に向かうことになりました。

体調思わしくなく大坂御堂前の花屋仁衛門の裏屋敷を借りて療養になりました。

しかし体調は回復せず、芭蕉は弟子に筆を取らせると、「病中吟」とまず書いて、

「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」

と書きました。これが辞世の句となりました。
元禄7年(1694、綱吉時代)10月12日、51歳でした。

「ウィキペディア(Wikipedia)」より引用 一部加筆

次回は上野寛永寺現存黒門(円通寺)を巡ります。

 

古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

『神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

『江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前控 享保2年(1717)

『神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図』 明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

「江戸一目屏風図」国立歴史民俗博物館ウェブサイトよりのダウンロードを推奨いたします

アメリカ合衆国パブリック・ドメイン・マーク 1.0より引用 

CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用 

引用表示の無い「古写真」「浮世絵」は『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

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