san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る杉山城 外郭から見る南三・二の郭屛風折り

「比企城館跡群」を廻ってみたいと思います。

杉山城跡と高見城跡は2021年4月からの記事と同じ内容です。

現地パンフレットより引用

 

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●現在地 外郭 南三の郭前

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●現在地 外郭 南二の郭前

屛風折り 土塁を何度も折り曲げて積み揚げ横矢を掛け守備側からの多角的な攻撃を可能している。

等高線に沿って掘られた堀を横堀空堀と呼んでいます。曲輪を取り巻くように掘られたり、虎口の周辺に掘って防御力を高めたり、敵が上がってきそうな緩やかな斜面緩やかな斜面を遮断するために設けている場合もあります

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本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。

縄張図片手に廻る杉山城 中世山城縄張の教科書 大手口

「比企城館跡群」を廻ってみたいと思います。

杉山城跡と高見城跡は2021年4月からの記事と同じ内容です。

現地パンフレットより引用

杉山城は私有地と言う事ですが、地権者さまが史跡保護に大変御理解のある方で、下草も刈って整備されています。この素晴らしい中世のお城を私たちが堪能出来るのも地権者さまのおかげです。感謝申し上げます。誠に有難うございます。

杉山城は標高95m、比高は42m、中世山城縄張の教科書と言われています。折れ、横矢掛り、食い違い虎口、折れ虎口があちこちに有り私も記事を書いて迷子になる事がありました。誤っている点もあると思いますがご容赦ください。

出郭、大手口、外郭、馬出郭、南三の郭、南二の郭、井戸郭と郭を一つ一つ落としながら本郭に向かって攻め進んで行きます。

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●現在地 大手口

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●現在地 外郭からの大手口への横矢掛り

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 中世の山城。空堀跡の深さの目安 堀巾上部から大体45度の角度で薬研堀の形で掘り下げていきます。深さが幅の半分になったところで両側の斜面がぶつかります。堀巾の二分の一が大体の深さです。

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又は大体、100年で1m位埋まって行きます。

例として箕輪城上野国)の空堀が現在幅40m深さ15m。発掘調査にて堀は6m程埋まっていることが判明しています。築城時21mの深さです。築城後約500年で6mです。

土壌や気候の関係で一概には言えませんが大体の目安として山城見学の参考にしてください。 

空堀を堀る時の土砂を利用して掻揚土塁を造った。傾斜はたたき土塁で45度芝土塁で60度位です。土塁内側からの高さは低くて約2メートル、高くて3メートルほどありました。山城の土塁で原型を留めているお城は数多くはありません。また、盛土ではなく山の斜面を切土して勾配をつけ切岸にした。切岸の下は必然的に帯曲輪又は腰曲輪になります。角度は45度から60度位です。土塁も切岸も維持管理を考えて45度位が多いです。

杉山城の空堀の深さ土塁の高さなどを想像して廻るとこのお城の凄さが一層見えてきます。

漢方の製薬に用いる鉄製の道具「薬研」 左にある車輪状の道具が「薬研車」、右にある舟形の容器が「薬研」。合わせて「薬研」という。薬研のごとく断面がV字形になっている薬研堀

 

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「薬研」 毛呂山町歴史民俗資料館蔵
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ブログ名『歴史メグラー』

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縄張図片手に廻る杉山城 中世山城縄張の教科書 出郭

「比企城館跡群」を廻ってみたいと思います。

杉山城跡と高見城跡は2021年4月からの記事と同じ内容です。

現地パンフレットより引用

杉山城は私有地と言う事ですが、地権者さまが史跡保護に大変御理解のある方で、下草も刈って整備されています。この素晴らしい中世のお城を私たちが堪能出来るのも地権者さまのおかげです。感謝申し上げます。誠に有難うございます。

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現地説明板複写

国指定史跡杉山城跡
この城は室町~戦国時代の築城と推定される典型的な山城である。総面積は7.6haにも及び、急峻な丘陵を巧みに利用して十余の郭を理想的に配している。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも有数の城である。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えに当時の高度な築城技術が偲ばれる。また、城の立地についても北方で四津山城(高見城)越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して松山城鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。築城年代や城主名等に不明な点も多いが、一説には松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えられている。(埼玉県教育委員会 嵐山町教育委員会)

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●現在地 出郭

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出郭から郭を一つ一つ落としながら本郭に向かって攻め進んで行きます。

市野川左岸の山の上に築かれた山城である。築城主は不明。地元豪族金子主水の築城によるとの伝承はあるが、文献資料にはあらわれない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは山内上杉氏時代の城である可能性が非常に強くなってきた。

この縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違を「杉山城問題」と呼んでいたが、後に発掘調査を裏付ける文書の提示により文献史学的観点を含めた見解の相違へと深化している。

杉山城問題 杉山城の築城を山内上杉氏によるものとする根拠は、次のとおりである。

 遺物の型式及び様式が、瀬戸美濃産陶器;古瀬戸後Ⅳ新段階〜大窯1段階(15世紀後半〜16世紀初頭)(藤澤1993,1996,2001など)

常滑甕10期;1450〜1500

明青花皿(染付皿B1類、15世紀後半〜16世紀初頭)(森田1982)

白磁皿C群(15世紀後半〜16世紀初頭)(小野1982)などいずれも15世紀後葉から16世紀前葉の様相を示す。

  • 山内上杉氏に関連する遺跡(城など)から出土する体部が直線的に開く独特な器形のかわらけ(土師質皿)の出土。
  • 16世紀中葉から後半の後北条氏時代の遺物が出土しない。
  • 遺物が二次被熱を受けて、遺構の一部である焼けた壁土の破片や炭化物と共伴する状況で出土し、特に3号土坑から焼けた壁土とともに出土した常滑焼破片が周囲の遺構面の破片と接合する(同一個体)であることから遺構と遺物の同時性がうかがわれる。

さらに近年、『足利高基書状写』に「椙山之陣」と記されている事が判明し、この書状の原本が天文15年(1546年)の河越夜戦以前の史料であることは明白なことから、上記の調査成果とも合致する内容となっている。このような事情で遺物から見た場合には、杉山城の築城が後北条氏によるものである可能性は低くなった。

一部の縄張り研究者は、そもそも陶磁器のような商品は生産・流通・使用・廃棄まで相当にタイムラグがあり、しかも杉山城のような前線基地に最新の生活用品を持ち込むとは想定し難い。また、松山城 (武蔵国)のように歴史上明らかに戦国末期まで使用された城でも、発掘調査では16世紀中頃までの遺物しか出てこず、最新の生活物資を伴わないような城の使われ方が存在した可能性があることから、部分的な調査の出土遺物で年代を決めることに対し慎重な意見もある。時系列で見ても、戦国前期の相模・武蔵地域の城の縄張りは総じて単純で、杉山城のものに類似する城は無く、後北条氏滝山城虎口に類似していること及び曲輪から「コ」字もしくは「J」に張り出しをつくって、正面は土塁で固め、側面に出入り口を設けて防御を強化した「比企型虎口」の形成過程をたどると、15世紀末〜16世紀初頭の他の城との技術的相違が見られる。更に、「椙山之陣」と杉山城の構造は当時の陣のあり方にそぐわず、両者をイコールとは必ずしも言えない事から、後北条氏の築城の可能性を主張する。しかし、一方では縄張り研究者も縄張りから築城主体や築城年代を推し量る事はできない事を認めている。

なお、杉山城について、山内上杉家の家宰を務めた長尾顕忠の居城であったとする説がある。この説は当初竹井英文が主張し、竹井は後にこの説を撤回したが、一方で黒田基樹が再びこの説を主張している。  ウィキペディアWikipedia)から引用

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縄張図片手に廻る津山城 津山城下 津山藩江戸上屋敷

                    御対面所であり藩主の隠居所

曲水(庭園の曲水に沿って参会者が座り、上流から流される杯が自分の前を通り過ぎないうちに詩歌をよみ、杯を手に取って酒を飲んでから杯を次へ流すという遊び)

リリー 浅丘ルリ子出演作

第11作「男はつらいよ 寅次郎忘れな草

第15作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」

第25作「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」

第48作「男はつらいよ 寅次郎紅の花」

私は「寅次郎ハイビスカスの花」が好きですね。

「江戸一目図屏風」について

江戸一目図屏風(岡山県指定重要文化財

「江戸一目図屏風」は、鍬形蕙斎が、文化6年(1809)に描いた江戸の景観図である。画面中央に江戸城を置き、その背後には富士山、そして左に江戸湾、下方に隅田川を配するなど、隅田川東部の上空から鳥になって江戸の町を見渡したような俯瞰図として、極めて写実的に見えるように描かれている。

蕙斎の「江戸一目図屏風」では、巧みな遠近感と画面構成の妙により、実際には距離も方位も少しずつ異なるそれぞれの部分を、違和感を与えることなく自然につなぎ合わせており、江戸時代を代表する新しい都市景観図の傑作として、その評価は極めて高い。

作者:鍬形蕙斎

作者の鍬形蕙斎は、俗称を三二あるいは三二郎といい、生年は不詳であるが、明和元年(1764)説が有力視されている。浮世絵師北尾重政に師事して修行し、天明元年(1781)には、北尾政美の画号を許された。ちなみに、著名な戯作者の山東京伝は、その兄弟子である。

寛政6年(1794)、津山藩に絵師として召抱えられる。浮世絵師から武士になるという破格の出世であった。津山藩の家臣となって間もなく、三二から蕙斎へと改号し、お抱え絵師として狩野家へ入門した後には、名を改めて紹真と名乗る。寛政9年(1797)には、浮世絵師としての北尾の姓を改め、母方の姓である鍬形を本姓とした。

https://adeac.jp/tsu-haku/top/

津山郷土博物館/江戸一目図・津山藩江戸日記等 (adeac.jp)

1874年(明治7年)1月15日、川路利良の建議書が採用され、首都警保のために東京府下の警察事務一切を管理する、内務省管轄の東京警視庁を津山藩江戸上屋敷跡に設置(明治七年一月十五日太政官達第六号)。

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『正保城絵図美作国津山城絵図』「国立公文書館デジタルアーカイブ」CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供

津山市(津山郷土資料館所蔵)公式サイトの古写真をWikipedia:ウィキペディアより引用(パブリックドメイン

縄張図片手に廻る津山城 備中櫓内部

岡山県津山市にある津山城において、当社が復元工事を請け負った「備中櫓」の紹介動画です。 津山城森蘭丸の弟にあたる森忠政公が築城しました。明治8年(1875年)廃城令で、建造物は取り壊されていましたが、築城を開始してから400年目の節目に、城内の櫓の中でも最も大きいとされる備中櫓が復元されることになりました。当時の絵図や明治の頃の写真等を参考に、3年間にわたる施工で忠実に復元されました。 映像提供:津山市教育委員会

鴻池組「蘇る備中櫓-史跡津山城備中櫓 復元のあゆみ-」(200502) (youtube.com)

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『正保城絵図美作国津山城絵図』「国立公文書館デジタルアーカイブ」CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供

津山市(津山郷土資料館所蔵)公式サイトの古写真をWikipedia:ウィキペディアより引用(パブリックドメイン

 

縄張図片手に廻る津山城 備中櫓

 本丸御殿台所南側の井戸は今も水を湛えている。ちなみに、平成18年1月17日現在の現地表面から水面までの深さは約12メートル、井戸底部までは約19メートルであった。井戸の内径は約1メートルであるから、今も約550リットルの水を湛えていることになる。『作州津山御城内之記作州津山之御城開築』が記す「本丸井地形より拾間水深サ五間」とは、この井戸のことを指している。

お城の井戸

 雨上がりの津山城跡を訪れた時、石垣から大量の水が噴き出しているのを見かけた。その場所は裏中門南桝形南面の石垣である。津山城跡の中で唯一岩盤が観察される場所である。北斜面の地形を削平し桝形を造出しているが、この時、南石垣面で高さ約1メートル程度にわたり岩盤が削り取られている。石垣はこの岩盤の上に直接積まれており、地下に浸透した雨水はこの岩盤面をつたって石垣から噴き出していたのである。これを見て、丘陵の頂部に位置する本丸の井戸にも水が溜まるということが理解できた。

「津山瓦版」より引用

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