『日本風景選集 岡山 内山下』 大正12年作
岡山城を“城山”と見立て、岡山城の城下の地域を「山下(さんげ)」と呼んでいました。
「内山下」は、岡山城の内堀の内側に位置していたことから名付けられたものです。本丸、二ノ丸です。対して、外堀に面した地区は「中山下」と呼ばれています。
「山下」という地名は珍しいですが、岡山県内には高梁城下に内山下があり、津山城下にも山下の地名があります。
月々に出枡形見る月は多けれど 出枡形見る月はこの月の出枡形
安岡正篤(やすおか・まさひろ)
安岡正篤は1898年(明治31年)大阪に生まれました。若くして漢学に通じ、『王陽明研究』『日本精神の研究』等の著作で世に知られます。
1931年(昭和6年)には「日本農士学校」を埼玉県菅谷の地に開校します。その狙いは、浮薄な都市文明を離れ、大地にしっかり足を着けて東洋の古典・哲学を学び、己を修めて国家社会の為に真に役立つ“無名にして有力なる”人材の育成でした。
公益財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館説明文より引用
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畠山 重忠は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。
源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて一族もろとも滅ぼされた(畠山重忠の乱)。館は、鎌倉筋替橋の東南。
存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。
鵯越の逆落とし
範頼と義経は摂津国福原(現在の兵庫県神戸市)まで復帰していた平家を討つべく京を発向。重忠は範頼の大手に属している。『平家物語』では義経の搦手に属し、これを基に話を膨らませた『源平盛衰記』では鵯越の逆落としで大力の重忠は馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下っている。一ノ谷の戦いで鎌倉軍は大勝して、平家は讃岐国屋島へと逃れている。
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『日本風景選集 岡山後楽園』 昭和9年作
後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成した。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいた。1871年(明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めた。
1871年(明治4年)2月7日に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放した。この時、「御後園」の名称を中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)からとって「後楽園」と改めた。
ウィキペディア(Wikipedia)から転載。有難うございます。
今日の政治家はこの言葉を煎じて何杯も飲んで欲しいものです。
延養亭(えんようてい)後楽園の中心的建物。
藩主の居間で、園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失し、昭和三十五年(1960)に第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元されました。 園内外の景勝が一望できるように作られており、歴代藩主もここから眺めました。
写真は巴水の浮世絵と同じにように偶然、延養亭の前を人が歩いていますが、残念ながら鶴は渡って来ていません。
松の植え込み等も戦災に遭う前と大体同じように植えられています。