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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 4 柳橋 両国橋

江戸城三十六見附。「浅草見附栄螺(/rp.さざえ)なら蓋のとこ」と川柳に詠まれた江戸城の濠の螺旋基点である浅草橋門から出発し、外堀(神田川)沿いに反時計回りに外堀を廻り、そして内堀を同じように反時計回りに歩く予定です。また、見附付近の江戸時代の史跡も見て廻りたいと思います。

今と昔をつなぐ古地図の魅力。

戸切絵図と浮世絵を照らし合わせて見ていますと、想像力を掻き立てられ江戸城と江戸の町をブラブラと歩いている感じで楽しくなってきます。江戸の暮らしの様子が浮かんでくる様です。

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータ『江戸切絵図』より引用させて頂きました。

家紋がある家(大名・上屋敷

家紋の刷ってある所が表門。 幕府から拝領した常住公邸で、登城の便を考えて、主に西丸下、大名小路、外桜田周辺に集中的に配置されていた。

がある家(大名・中屋敷

印のある位置が表門。 隠居藩主、跡継ぎが暮らす常住屋敷で、御城の外濠の内側に沿った場所に多くあった。

がある家(大名・下屋敷

印のある位置が表門。 郊外の別邸で、景色の勝れた所にあり、また、すべての大名が持っていたわけではない。

戸切絵図は地図上の名前の向きがバラバラです。それは表門に面して住んでいる人の名前を書いていた為です。

敷地が広い為、表門を探して歩くと時間がかかるので表門を印で分かるようにしてあります。

切絵図の色分けは、塗られた色により

白色・・武家屋敷 赤色・・寺社 鼠色・・町屋 

青色・・堀、川、池など 緑色・・森、土手、馬場など

黄色・・道、橋 道路角の・・辻番屋 武家地で「辻番」、町人地では「自身番」と呼ばれ、現在の派出所「交番」です。

鼠色に塗られた町屋には町名が記されているが、武家屋敷には町名らしき記載がありません。これは、武家屋敷には住所は無かったということです。

江戸城三十六見附

天下普請による瀬替え

第二代将軍徳川秀忠の時代には、旧・平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われた。1620年(元和6年)、秀忠の命を受け、仙台藩祖の伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの開削を担当した。小石川見附門から東に神田山を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在の御茶の水に人工の谷(茗渓)を開削した。このため、この区間は特に「仙台堀」あるいは「伊達堀」とも呼ばれる。本郷台地の東では旧石神井川の河道を流れる小河川と合流させて真東に向かい、現在の浅草橋や柳橋の東で隅田川に合流させた。開削当初の「仙台堀」は川幅が狭く洪水を解消する機能にも事欠いたが、幕府は河川舟運に供するため拡幅するよう仙台藩第4代藩主伊達綱村に命じ、1660年(万治3年)より拡幅工事がなされた。この拡幅された掘割から河口までを神田川と呼んだ。広く開削された旧・平川を舟運が船河原橋(ほぼ現在の飯田橋)まで通じるようになった。ウィキペディアWikipedia)から引用。有難うございます。

柳橋

神田川隅田川に合流する河口部に架橋されています。柳橋には大川(隅田川)の舟遊びや、新吉原や向島花街へ向かう遊客を乗せる猪牙舟の発着所として賑わい、橋の両岸には誘発的に船宿や料理屋が作られました。のちにそれが待合茶屋芸者置屋のある花街へと発展してゆきました。あの有名な柳橋芸者です。

 

「江戸高名会亭尽 柳ばし」歌川 広重    「当時高名会席尽 柳橋むめ川」五渡亭国貞

『錦絵でたのしむ江戸の名所』国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータ

両国橋 両国広小路跡

徳川家康千住大橋より下流域の架橋を禁じてたそうです。それというのは千住は武蔵国の内だが、その下流域は武蔵国下総国の国境であり、家康の時代には下総国上総国は豊臣配下の武将がいたからです。明暦の大火により江戸の焼死者は十万ともいわれ、避難路の必要から橋を設けることになった。この橋は❮大橋❯という名だったが、江戸市民らにその名は浸透せず、二つ国(武蔵と下総)に架かる橋ということで両国橋と呼ぶようになり、それが後に正式名称になったそうです。橋の両端に火除明地(ひよけあきち)の広小路が設けられ、西側を❮両国❯東側を❮向こう両国❯と呼んだそうです。

明地には恒久的な建造物は建てることができませんでした。

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用

歌川 広重(寛政9年(1797)ー安政5年9月6日(1858)江戸時代の浮世絵師。

江戸の定火消の安藤家に生まれ家督を継ぎ、馬場先門前の幕府直轄消防組織に定火消同心として20年間詰めていました。

その後に浮世絵師となり『名所江戸百景』『東海道五十三次』等の風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの画家にも影響を与えた。

死絵(しにえ)は、その訃報と追善を兼ねて版行された浮世絵。『ウィキペディアWikipedia)』より引用

「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」

ゴッホの日本趣味に対する強い憧れが如実に見える、浮世絵師の歌川広重の錦絵「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」を忠実に模写した作品です。32歳の時に移住したパリでゴッホは浮世絵と出会い、その構図や色彩感覚、線描画法などを自身の中に取り込んでいきました。この作品の最大の特徴は雨の描写です。この描写の仕方こそ、原図である「大はしあたけの夕立」の最大の特徴であり、西洋の絵画表現と大きく異なるところです。上空から降る雨は複数の長い斜線で描写されます。この錦絵独自の躍動感ある個性的な表現に惹かれて、ゴッホは模写を試みたのだろうと推測されています。大胆な構図で描かれる大橋や斜めに傾く水平線なども、ゴッホの心を捉えた点でしょう。原図にはない漢字による装飾は、日本趣味的表現を強調しようとして加えられたと推測されます。制作年1887年 素材/技法キャンバスに油彩 「This is Media」作品解説から転載

向こう両国

次回は回向院、吉良邸跡、芥川龍之介生家跡へタイムスリップ

 

古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ

記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前享保2年(1717)

神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

「江戸一目屏風図」国立歴史民俗博物館ウェブサイトよりのダウンロードを推奨いたします

アメリカ合衆国パブリック・ドメイン・マーク 1.0より引用 

CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用 

引用表示の無い「古写真」「浮世絵」はウィキペディアWikipedia)』より引用

本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。

「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 3 郡代屋敷 初音の馬場 小伝馬町牢屋敷 吉田松陰終焉之地

江戸城三十六見附。「浅草見附栄螺(さざえ)なら蓋のとこ」と川柳に詠まれた江戸城の濠の螺旋基点である浅草橋門から出発し、外堀(神田川)沿いに反時計回りに外堀を廻り、そして内堀を同じように反時計回りに歩く予定です。また、見附付近の江戸時代の史跡も見て廻りたいと思います。

今と昔をつなぐ古地図の魅力。

戸切絵図と浮世絵を照らし合わせて見ていますと、想像力を掻き立てられ江戸城と江戸の町をブラブラと歩いている感じで楽しくなってきます。江戸の暮らしの様子が浮かんでくる様です。

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータ『江戸切絵図』より引用させて頂きました。

家紋がある家(大名・上屋敷

家紋の刷ってある所が表門。 幕府から拝領した常住公邸で、登城の便を考えて、主に西丸下、大名小路、外桜田周辺に集中的に配置されていた。

がある家(大名・中屋敷

印のある位置が表門。 隠居藩主、跡継ぎが暮らす常住屋敷で、御城の外濠の内側に沿った場所に多くあった。

がある家(大名・下屋敷

印のある位置が表門。 郊外の別邸で、景色の勝れた所にあり、また、すべての大名が持っていたわけではない。

戸切絵図は地図上の名前の向きがバラバラです。それは表門に面して住んでいる人の名前を書いていた為です。

敷地が広い為、表門を探して歩くと時間がかかるので表門を印で分かるようにしてあります。

切絵図の色分けは、塗られた色により

白色・・武家屋敷 赤色・・寺社 鼠色・・町屋 

青色・・堀、川、池など 緑色・・森、土手、馬場など

黄色・・道、橋 道路角の・・辻番屋 武家地で「辻番」、町人地では「自身番」と呼ばれ、現在の派出所「交番」です。

鼠色に塗られた町屋には町名が記されているが、武家屋敷には町名らしき記載がありません。これは、武家屋敷には住所は無かったということです。

江戸城三十六見附

郡代屋敷跡

郡代屋敷跡(伊奈氏の「関東郡代屋敷」)

伊奈易次が松平家の家臣となり、易次の子忠家・忠次親子は家康に仕え忠次は三遠奉行の一人となって功をあげ、大久保長安らと共に代官頭となって活躍しました。

忠次の子の忠治の系統は旗本となり「関東郡代」を世襲しました。

寛政4年(1792)、忠尊の時後継ぎをめぐって内紛が起き忠尊は所領没収の上永蟄居、子の忠善も柳沢家にお預けとなり失脚しました。

その後、関東郡代勘定奉行が兼務することとなり、文化3年(1806)「郡代制度」は廃止、代官の拝領地となって「馬喰町御用屋敷」となりました。嘉永切絵図に「郡代屋敷」とありますが、江戸の人々が「郡代屋敷」と呼んでいた為と思います。

柳原土手(柳原通り) 江戸時代の石垣発見

神田川江戸城の防御のための堀の役割を果し、浅草橋御門一帯は江戸城内でも重要な位置にあたります。

出土した場所は、江戸時代を通じて神田川に沿った柳原土手という土手でした。

平成19年12月から平成20年5月にかけて行なわれた発掘調査において、地下1mほどで発見されました。伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石です。こうした石が6段前後、高さ3〜4mに数十個積まれた状態で見つかりました。これは江戸城の防御を固める石垣です。土手の南側を補強する意味もあったのかもしれません。土手の形に沿って東西に長く築かれていました。今回の発掘調査で、はじめてここに石垣が築かれていたことがわかった新発見の資料で、まさにこの一帯が江戸城の一角を成していたことがわかる貴重な出土遺物です。(日本橋女学館 解説板より)

浅草橋御門右手の石垣跡と思われます。

神田川通絵図』 国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用させて頂きました。

神田川通絵図』巻頭に天明五巳年(1785)三月とあり、牛込御門から大川(柳橋)まで、神田川とその左岸河岸地沿いの屋敷地区画、名称を記す。

初音の馬場

天正18年(1590)に関東移封によって徳川家康が江戸入りすると、博労頭として高木源兵衛が当地に居住し馬場を管理する事となり、当初は博労町と記されていたが次第と馬喰町と呼ばれるようになっていく。慶長5年(1600)徳川家康関ヶ原の合戦の前に戦勝を祈願する馬揃えを行った。

                     『天正日記』小宮山綏介 注 国立国会図書館    

                    デジタルコレクションより引用

『江戸名所図会 馬喰町馬場』長谷川雪旦  『名所江戸百景 馬喰町初音の馬場』歌川広重         

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用

江戸の風景を描いた絵には火の見櫓が数多く描かれています。

江戸では、「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が残るほど頻繁に発生しました。

火事の回数

関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回の大火が発生した。江戸以外の大都市では、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などであり、比較して江戸の多さが突出しているといえる。

大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、慶長6年(1601年)からの100年間で269回、元禄14年(1701年)からの100年間で541回、寛政13年/享和元年(1801年)から慶応3年(1867年)までの67年間で986回となり、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、火事の回数も増加していった。特に嘉永3年(1851年)から慶応3年(1867年)までの17年間では506回もの火事が発生しているが、これは江戸幕府の権力低下による治安の悪化が大きく影響しているとされる。

建築物は木造を中心として発達してきたため、火災が発生した場合には延焼の恐れがある。中でも明暦3(1657)年の大火では、江戸城天守閣はじめ江戸城下の町々の大半が焼失するという極めて甚大な被害を受けた。そのため、一度火災が発生すると大災害となる可能性が非常に高いことから、防火、初期消火は重要な課題であった。

 そこで江戸幕府では万治元(1658)年、定火消(江戸中定火之番)を設けた。飯田橋、市ヶ谷、御茶ノ水、麹町の四箇所に火消役の屋敷を造り、そこに火災監視を目的として建設した望楼が、火の見櫓の始まりである。

町人地における消防組織は、遅れて享保3(1718)年に大岡越前守忠相により「町火消」として組織された。これらにも高さなどに制約はあるものの、定火消同様火の見櫓を設ける事が許された。また、櫓のない町には、自身番(自警団の屯所)の屋根上に梯子を立てて半鐘を吊るしただけの「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設けられた。

 これらの火の見櫓は木造黒塗りで、最も格が高い定火消の火の見櫓で高さがおよそ五丈(約15m)、町火消の火の見櫓で三丈(約9m)以下とされていた。

ウィキペディアWikipedia)より引用。

火之見番所立面図 御作事方大棟梁甲良豊前

東京都立図書館オープンデータより引用 

諸藩邸火之見櫓       「鎮火安心図巻」鬼蔦斎     赤○辺りの様子

              町火消「ま組」が様子を窺う。右は火消屋敷の火の見

              櫓。ま組(受持区域):赤坂伝馬町、赤坂新町、赤坂

              田町、元赤坂町、麻布今井町/人足285人

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用

小伝馬町牢屋敷

                      『古事類苑』国立国会図書館デジタルコレク    

                    ションより引用
初代の石出帯刀は当初大御番を務めていたが、徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来その職を務めるようになった。江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官である囚獄(牢屋奉行)の世襲名。家禄は三百俵。格式は、譜代・役上下・御目見以下であるが旗本である。

歴代の石出帯刀のうちで最も高名な人物が、石出吉深(よしふか)

明暦の大火 (明暦3年〈1657年〉)に際して、収監者を火災から救うために独断で「切り放ち」を行ったことにより知られている。猛火が迫る中で死罪の者も含めて数百人余りの「切り放ち」を行った。収監者達は吉深に感謝し、後日約束通り全員が牢屋敷に戻ってきたという。吉深は老中に罪一等の減刑を嘆願、幕府も収監者全員の減刑を実行する事となった。江戸期を通じて「切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪」とする制度として不文律の慣例化された

関東大震災や太平洋戦争末期の空襲の折に、実際に刑務所の受刑者を「切り放ち」した記録が残っています。

吉田松陰終焉之地

留魂録』(りゅうこんろく)は、幕末長州藩の思想家である吉田松陰が、1859年(安政6年)に処刑前に獄中で松下村塾の門弟のために著した遺書である。この遺書は松下村塾門下生のあいだでまわし読みされ、松門の志士達の行動力の源泉となった。

辞世の句

「身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂

文政13年8月4日〈1830年9月20日 - 安政6年10月27日〈1859年11月21日〉

吉田松陰私の好きな語録

「志を立ててもって万事の源となす」

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」

「人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。」

草莽崛起(そうもうくっき)」「草莽は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」。長州の奇兵隊

松陰の首を打った第7代山田浅右衛門(首切り浅右衛門)は、松陰の最期をこのように語っています。

「刑場に現れた松陰は実に悠々としていて、役人に「御苦労様」と挨拶をして、姿勢を正して座った。その堂々とした態度に役人も感嘆していた。

首を打たれる瞬間まで落ち着いていた松陰は、あっぱれであった。」

安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年29。

処刑直後に葬られた豊国山回向院(東京都荒川区)の墓地に現在も墓石が残る。

文久3年(1863年)に改葬された東京都世田谷区若林の現在の墓所には、明治15年(1882年)に松陰神社が創建された。長州藩は江戸時代初期に同地の土地を購入し、抱屋敷を持っていた。

 

江戸藩邸のうち江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷。一方、大名が民間の所有する農地などの土地を購入し建築した屋敷は、抱屋敷(かかえやしき)と呼ばれる。

拝領屋敷と異なり、それまでその土地に掛けられていた年貢や諸役は、大名の所有となった後も負担する必要があった。幕府の職の一つである屋敷改の支配を受けた。

次回は柳橋、両国橋へタイムスリップ

 

古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ

記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前享保2年(1717)

神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

「江戸一目屏風図」国立歴史民俗博物館ウェブサイトよりのダウンロードを推奨いたします

アメリカ合衆国パブリック・ドメイン・マーク 1.0より引用 

CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用 

引用表示の無い「古写真」「浮世絵」はウィキペディアWikipedia)』より引用

本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。

「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 2 浅草見附

江戸城三十六見附。「浅草見附栄螺(さざえ)なら蓋のとこ」と川柳に詠まれた江戸城の濠の螺旋基点である浅草橋門から出発し、外堀(神田川)沿いに反時計回りに外堀を廻り、そして内堀を同じように反時計回りに歩く予定です。また、見附付近の江戸時代の史跡も見て廻りたいと思います。

今と昔をつなぐ古地図の魅力。

戸切絵図と浮世絵を照らし合わせて見ていますと、想像力を掻き立てられ江戸城と江戸の町をブラブラと歩いている感じで楽しくなってきます。江戸の暮らしの様子が浮かんでくる様です。

『江戸切絵図』 下書きされた地図を絵師が仕上げるため、絵図と呼ばれた。

尾張屋清七板江戸切絵図」嘉永2年(1849)は見やすさを重視したため縮尺が実際と違い正確ではありません。また、方位も北が必ずしも上ではありません。江戸の町は100万人の人口を抱える世界最大の都市でした。そのうちの約半分は武士、多くは地方出身の武士です。当時の武家屋敷には表札が掛かっていません。目的の屋敷にたどり着くには携帯できて、分かりやすい切絵図(江戸時代のグーグルマップ)が必要だったのです。

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータ『江戸切絵図』より引用させて頂きました。

家紋がある家(大名・上屋敷

家紋の刷ってある所が表門。 幕府から拝領した常住公邸で、登城の便を考えて、主に西丸下、大名小路、外桜田周辺に集中的に配置されていた。

がある家(大名・中屋敷

印のある位置が表門。 隠居藩主、跡継ぎが暮らす常住屋敷で、御城の外濠の内側に沿った場所に多くあった。

がある家(大名・下屋敷

印のある位置が表門。 郊外の別邸で、景色の勝れた所にあり、また、すべての大名が持っていたわけではない。

戸切絵図は地図上の名前の向きがバラバラです。それは表門に面して住んでいる人の名前を書いていた為です。

敷地が広い為、表門を探して歩くと時間がかかるので表門を印で分かるようにしてあります。

切絵図の色分けは、塗られた色により

白色・・武家屋敷 赤色・・寺社 鼠色・・町屋 

青色・・堀、川、池など 緑色・・森、土手、馬場など

黄色・・道、橋 道路角の・・辻番屋 武家地で「辻番」、町人地では「自身番」と呼ばれ、現在の派出所「交番」です。

鼠色に塗られた町屋には町名が記されているが、武家屋敷には町名らしき記載がありません。これは、武家屋敷には住所は無かったということです。

早稲田大学図書館古典籍総合データベース」より引用させて頂きました。

江戸城三十六見附

1 浅草橋門(浅草見附)外曲輪 枡形門 2 筋違橋門(筋違見附)外曲輪 枡形門    

3 小石川門 外曲輪 枡形門      4 牛込門 (牛込見附) 外曲輪 枡形門   

5 市谷門 (市ヶ谷見附) 外曲輪 枡形門 6 四谷門 (四谷見附) 外曲輪 枡形門        7 喰違門(喰違見附)外曲輪 冠木門  8 赤坂門 (赤坂見附) 外曲輪 枡形門

9 虎ノ門 外曲輪 枡形門       10 幸橋門 外曲輪 枡形門                 

11 山下橋門 外曲輪 枡形門         12 数寄屋橋門 内曲輪 枡形門            

13 鍛冶橋門 内曲輪 枡形門      14 呉服橋門 内曲輪   枡形門             

15 常盤橋門 内曲輪 枡形門      16 神田橋門 内曲輪   枡形門             

17 一ツ橋門 内曲輪 枡形門         18 雉子橋門 内曲輪    枡形門             

19 竹橋門 北の丸 枡形門             20 清水門 北の丸 枡形門 重要文化財

21 田安門 北の丸 枡形門 重要文化財 22 半蔵門 吹上 枡形門  

23 外桜田門 (桜田門) 西の丸下 枡形門 重要文化財

24 日比谷門 内曲輪 枡形門       25 馬場先門 西の丸下 枡形門            

26 和田倉門 西の丸下 枡形門         27 大手門 三の丸 枡形門 特別史跡

28 平河門 三の丸 枡形門 特別史跡   29 北桔橋門 本丸 桝形門 特別史跡   30 西の丸大手門 西の丸 枡形門 特別史跡 

31 西の丸玄関門 西の丸 (西丸書院前門・二重橋)            

32 坂下門 西の丸 枡形門       33 内桜田門 (桔梗門) 三の丸 枡形門

34 下乗門 (大手三ノ門) 二の丸  枡形門  35 中之御門  本丸                             

36 中雀門 (御書院門) 本丸 枡形門 特別史跡

江戸城三十六見附以外に芝口見附(東海道)、浜大手門がある。

江戸城の門

外郭城門19門、本丸・二の丸・三の丸城門9門、西の丸・西の丸下・吹上城門7門、北の丸城門3門、(諸門概数)本丸諸門29門、二の丸諸門7門、三の丸諸門1門、西の丸諸門28門、紅葉山諸門6門、吹上諸門16門の多数の門が置かれていた。

浅草見附

『江戸切絵図』神田浜町日本橋北之図 国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用

浅草橋御門 浅草見附「旧江戸城写真帖」東京国立博物館オープンデータよりより引用させて頂きました。

『旧江戸城写真帖』(六十四枚) 蜷川式(にながわのり)胤(たね)編  1帖 重要文化財 東京国立博物館オープンデータ

鶏卵紙 明治4年(1871) 東京国立博物館

この「旧江戸城写真帖」は当時の太政官の役人(少史)であった蜷川式胤(1835−82年)が写真師・横山松三郎と絵師・高橋由一の協力を得て明治4年(1871)に作製した旧江戸城の記録写真集である。写真には、蜷川により第1図から第64図まで墨と思われる筆跡で順番が記入されている。場面の順番は、江戸城中心部から周辺の各見附に向かっており、主要な建物や場所については蜷川の同筆で画面上に注記されている。全写真には高橋由一により淡彩(顔料による水彩)が施されている。現在は、横山が写し取った画像の輪郭はかなり失われ、この着色によって場面の判別が可能であるといえる状態である。また見返しの表と裏には「東京之図」「東京城図」の地図2枚が糊付けされており、後者には「明治四年辛未写生之 蜷川式胤」の款記と「宮道(蜷川の旧姓)式胤」の単廓朱方印が捺されている。

「旧江戸城写真帖」が制作された経緯は、見返しに付された蜷川の太政官への伺書控によって知られる。それによると「破壊ニ不相至内、写真ニテ其ノ形況ヲ留置」ことは「後世ニ至リ亦博覧ノ一種」になるという。つまり本写真帖の製作は、当初から対象が文化財(当時の観念では博物といってもよい)として認識されており、その記録に写真をいち早く採り入れたことで、写真史上のみならず近代文化財保護の原点ともいえる点で貴重であるとして重要文化財に指定された。「旧江戸城写真帖」の制作を経験した蜷川、横山、高橋らは、翌明治5年に奈良や京都の古社寺と正倉院の宝物調査を行い(干支にちなんで壬申検査という)、多数の記録写真を残した。写真による記録保存の方法が文化財保護に対して有効であることが示されたといえよう。2000.06.27(平成12.06.27)指定

浅草橋御門 『江戸城御外郭御門絵図』東京都立図書館オープンデータより引用させて頂きました。

江戸城御外郭御門絵図』重要文化財 東京都立図書館オープンデータ

奥書印記 御作事方大棟梁甲良豊前 享保二丁酉年十月 享保2(1717) 写図彩色 1帖(26図)

江戸城の外郭は「外曲輪」とも言い、隅田川江戸湾・外堀によって囲まれる範囲である。外堀は北側が神田川、西から南側は四谷赤坂に至る。外郭内は広い意味での江戸城内となり、江戸の城下町がほとんど含まれていた。

外部から城内に入る筋道には城門、見附を置いて厳重に出入りを警備した。俗に三十六見附と言われたが、実際には大小無数の門があり、本丸・西の丸の六大門、外曲輪二十六門、その他の諸門があった。

当資料は、馬場先御門、赤坂御門等の各門の位置を示した全体図と番所の平面図を描いた26図を折本に仕立てたものである。

浅草見附

橋の袂に「浅草見附跡碑」が建てられていますが、枡形門があった名残は感じることができません。浅草橋門は奥州街道日光街道に繋がる門で、江戸の北方防衛の要であった。かつ浅草寺や吉原方面への往来も盛んであった。寛永13年(1636)越前国福井藩主の松平忠昌(家康の二男秀康の子)が、元初音森神社の跡地に枡形門を築いた。

枡形広さ 間口12間≒21.8m 奥行16間3尺≒30m 654㎡198坪

石垣高さ2間4尺≒4.8m 櫓台高さ3間≒5.4m 渡櫓桁行24間≒43.2m 梁間4間(7.2m)

高麗門(内法)2間4尺3寸 渡櫓門(内法)2間3尺2寸≒4.56m 進路 右折 

木橋 橋長さ20間≒36m 橋幅4間≒7.2m 堀巾18間≒32.4m 石垣 算木積切り込接布積

参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図明治17年 (1884) 国土地理院所蔵

五千分一東京図測量原図より引用

この時点で枡形は撤去されています。時の流れは早いものです。

江戸城御外郭御門絵図』の浅草橋御門絵図をグーグルマップに縮尺を合わせて貼り付けてみました(渡櫓桁行で寸法を合わせています)。正確ではありませんが当時の大体の様子が分かります。以降の合成図も同じです。

当時、神田川から北は浅草と呼ばれていた地域でした。ここに江戸から北へ向かう水戸街道奥州街道の入り口として浅草見附が出来て、門と橋が作られました。浅草見附にあった橋なので、この橋は浅草橋と名づけられました。

枡形見附門の警備は大名と寄合衆が務めた

寄合とは、3千石以上の家禄を受けながら役に付いていない幕臣である。寄合が詰めたのは外曲輪の13見附門(清水門・雉子橋門・数寄屋橋門、山下門、虎ノ門、赤坂門、四谷門、市谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、浅草橋門、浜御殿大手門)である。

城門の番にあたるのは2名で毎月11日交代の月番制で3年間務めた。当番の旗本は肩衣袴姿で、羽織袴姿の番士3名、家来、給人、徒歩、足軽が従って詰めていた。鉄砲5挺、弓3張、長柄5筋、持筒2挺、持弓1張が備えられていた。

持筒 持弓? 持組(もちぐみ)は江戸幕府の組織。将軍の弓や鉄砲を持つ将軍直衛の弓・鉄砲隊である。

持筒組と持弓組があり、前者は鉄砲隊である。時代によって増減するが寛永九年は持筒組四組、持弓組は三組であった。各組は持之頭(持筒頭・持弓頭)の元、与力10人・同心50人で構成された。

旗本(騎兵)と御家人(歩兵)は共に江戸時代に将軍に仕えていた家臣。

知行(支給される土地や俸禄)が1万石以上だと大名。

1万石未満で将軍に御目見(拝謁)できるのが旗本。

1万石未満で将軍に会うことができない御目見(拝謁)以下が御家人

旗本は個別に屋敷を拝領していた。

御家人は所属する組単位で屋敷が与えられていた。

旗本:約5000人  御家人:約17000人

【明暦の大火、通称振袖火事】

明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月21日の3日間にかけ、本郷、小石川、麹町の3か所から次々と出火し、江戸市街の約6割を焼き払った大火事。若くして亡くなった「おきく」と言う商人の娘の振袖を本妙寺で焼いたことが火事のきっかけとされています。江戸城天守閣もこの時に焼失し、以降再建されることはなかった。

小伝馬町牢獄の囚人を解き放ち、この囚人たちが浅草橋門へ殺到した。見附の番人は脱走と勘違いし門を閉じてしまい、その為一般市民も含めて2万3000余人近い死者を出した。この火事をきっかけに幕府は軍事上の規範を廃して、両国橋の架設が幕府で決まり、その後隅田川に順次橋が架かっていきました。江戸から両国橋を参道として、明暦の大火全体の焼死者10万人弔う回向院が建てられました。

浅草橋御門へ殺到する市民の様子 『むさしあぶみ』浅井了意

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用

『むさしあぶみ』は、浅井了意による仮名草子で万治4年(1661 )刊行。

大火の悲惨さを伝えることを目的とした文学作品であり、誇張した表現も多いと思われるが、大火の顛末がかなり正確に記されており、明暦の大火を語る上で欠かせない史料である。

浅草御門の出土した門柱 初音森神社

               出土した門柱

「江戸一目図屏風」岡山県指定重要文化財

鍬形蕙斎が、文化6年(1809)に描いた江戸の景観図である。画面中央に江戸城を置き、その背後には富士山、そして左に江戸湾、下方に隅田川を配するなど、隅田川東部の上空から鳥になって江戸の町を見渡したような俯瞰図として、極めて写実的に見えるように描かれている。

屏風全体に広がる大画面には、江戸城内の大名屋敷や巨大都市江戸の町並みを初めとして、日本橋や両国橋、上野の寛永寺、雷門で有名な浅草寺、それに遊郭の新吉原など、地方の人々にもよく知られた江戸の名所を中心として、実に500か所以上もの名のある場所が、四季の彩りを添えて描き込まれている。

この「江戸一目図屏風」が登場するまでの「洛中洛外図屏風」や「江戸図屏風」では、様々な伝統行事や名所を同一の画面上に配置してあるものの、時間や空間の矛盾を自然に解消することができず、不連続な部分をたなびく金雲によって処理していた。しかし、蕙斎の「江戸一目図屏風」では、巧みな遠近感と画面構成の妙により、実際には距離も方位も少しずつ異なるそれぞれの部分を、違和感を与えることなく自然につなぎ合わせており、江戸時代を代表する新しい都市景観図の傑作として、その評価は極めて高い。更に、現在では美術的な価値のみならず、風俗や建築、そして歴史的な都市景観の研究資料としても注目されている。

作者の鍬形蕙斎は、生年は不詳であるが、明和元年(1764)説が有力視されている。浮世絵師北尾重政に師事して修行し、天明元年(1781)には、北尾政美の画号を許された。寛政6年(1794)、津山藩に絵師として召抱えられる。浮世絵師から武士になるという破格の出世であった。津山藩の家臣となって間もなく、三二から蕙斎へと改号し、お抱え絵師として狩野家へ入門した後には、名を改めて紹真と名乗る。寛政9年(1797)には、浮世絵師としての北尾の姓を改め、母方の姓である鍬形を本姓とした。傑出した江戸の鳥瞰図として著名なこの「江戸一目図屏風」、松平定信の求めにより同時代の多様な職業の人々を軽妙に描いた『近世職人尽絵詞』など、多くの傑作を残し、文政7年(1824)3月、病により江戸で没した。

津山郷土博物館説明文より引用

「江戸一目屏風図」国立歴史民俗博物館ウェブサイトよりのダウンロードを推奨いたします。

江戸城枡形門 内枡形門(一般的な例です)

外枡形門、半出枡形門等があります。

枡形門の防衛

枡形門からの←射線

 

浅草見附から浅草寺

創建 - 平安時代

浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下の通りである。

飛鳥時代推古天皇36年(628)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音像となる。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかちとも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5cm)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857)。天長5年(828)とも、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。

中世 - 近世

浅草寺の文献上の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192)、鎌倉の勝長寿院後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。

天正18年(1590)、江戸に入府した徳川家康浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631)、同19年(1642)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648)に五重塔、同2年(1649)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。

貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1843)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。

近代

関東大震災直後。仲見世は全焼したが、境内は被害を免れた。

浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。1873年明治6年)には境内が公園地に指定され(浅草公園)、1885年(明治18年)12月27日には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。1890年(明治23年)には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。

ウィキペディアWikipedia)から転載。有難うございます。

穢多・非人居住地(歴史用語として使用)

士・農・工・商・「穢多・非人」の江戸時代の身分制度

浅草非人頭・車善七は享保7年(1722)に穢多頭の浅草矢野弾左衛門支配下に入った。

明治維新前夜、薩摩藩弾左衛門に「貴公の家も島津候の家も、共に頼朝公から出た一家であるから、共に相呼応して幕府を倒し賤民の境遇から脱却したらどうか」と盛んに助力を頼まれ弾左衛門が非常に迷っていたと、松本良順(後の初代軍医総監)自身が口述した記録が『同方会報告』に掲載されて残っています。この問題をきっかけにして穢多・非人を平人の列に組み入れる話が決まりましたが、急に全員を平人にしては幕府の権威に関わるということで弾左衛門以下65名が幕府の時に平人の列に入りました。その後明治4年に「解放令」が出され穢多・非人制度が廃止されました。しかし、「未開放部落」として差別は続いていきます。

 

 

新吉原 傾城三千人

榊原 政岑は徳川吉宗が出した倹約令を無視して、吉原で派手に遊興にふけった。寛保元年(1741)に吉原の名妓・高尾太夫を身請けするなど奢侈を好んだ。吉宗自身は改易を考えたが、榊原家がもともと徳川四天王の名家であったこと、そして重臣の懸命な弁明により、政岑は吉宗より隠居蟄居を命じられ、家督は嫡男の正純が継ぐことを許されたものの、要地の姫路から、僻地であり懲罰転封先として知られる越後高田に転封を命じられた。

文字通り城を傾けてしまいました。この他大名、旗本で身を傾けた人が多かったそうです。江戸の世も現代も(男の人は)あまり変わりがありませんね。「他山之石」として肝に銘じましょう。 

仲之町の通りは春には桜を、秋には紅葉を毎年移植して楽園を演出していました。毎年植え替える!!こういうお仕事は儲かるんですね。

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次回は郡代屋敷 初音の馬場 伝馬町牢屋敷へタイムスリップ 


古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ

記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849) 『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

神田川通絵図』天明5年(1785) 『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858) 

『江戸絵図』正保元年(1644)   『絵本江戸土産』嘉永3年(1850) 

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用 

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前享保2年(1717)

神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

 東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量 『空中写真』国土地理院ウェブサイトより引用 

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アメリカ合衆国パブリック・ドメイン・マーク 1.0より引用 

CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用 

引用表示の無い「古写真」「浮世絵」はウィキペディアWikipedia)』より引用

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「江戸切絵図、浮世絵、古写真」を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ 1

江戸城三十六見附。「浅草見附栄螺(さざえ)なら蓋のとこ」と川柳に詠まれた江戸城の濠の螺旋基点である浅草橋門から出発し、外堀(神田川)沿いに反時計回りに外堀を廻り、そして内堀を同じように反時計回りに歩く予定です。また、見附付近の江戸時代の史跡も見て廻りたいと思います。

今と昔をつなぐ古地図の魅力。

戸切絵図と浮世絵を照らし合わせて見ていますと、想像力を掻き立てられ江戸城と江戸の町をブラブラと歩いている感じで楽しくなってきます。江戸の暮らしの様子が浮かんでくる様です。

『江戸切絵図』 下書きされた地図を絵師が仕上げるため、絵図と呼ばれた。

尾張屋清七板江戸切絵図」嘉永2年(1849)は見やすさを重視したため縮尺が実際と違い正確ではありません。また、方位も北が必ずしも上ではありません。江戸の町は100万人の人口を抱える世界最大の都市でした。そのうちの約半分は武士、多くは地方出身の武士です。当時の武家屋敷には表札が掛かっていません。目的の屋敷にたどり着くには携帯できて、分かりやすい切絵図(江戸時代のグーグルマップ)が必要だったのです。

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータ『江戸切絵図』より引用させて頂きました。

家紋がある家(大名・上屋敷

家紋の刷ってある所が表門。 幕府から拝領した常住公邸で、登城の便を考えて、主に西丸下、大名小路、外桜田周辺に集中的に配置されていた。

がある家(大名・中屋敷

印のある位置が表門。 隠居藩主、跡継ぎが暮らす常住屋敷で、御城の外濠の内側に沿った場所に多くあった。

がある家(大名・下屋敷

印のある位置が表門。 郊外の別邸で、景色の勝れた所にあり、また、すべての大名が持っていたわけではない。

戸切絵図は地図上の名前の向きがバラバラです。それは表門に面して住んでいる人の名前を書いていた為です。

敷地が広い為、表門を探して歩くと時間がかかるので表門を印で分かるようにしてあります。

切絵図の色分けは、塗られた色により

白色・・武家屋敷 赤色・・寺社 鼠色・・町屋 

青色・・堀、川、池など 緑色・・森、土手、馬場など

黄色・・道、橋 道路角の・・辻番屋 武家地で「辻番」、町人地では「自身番」と呼ばれ、現在の派出所「交番」です。

鼠色に塗られた町屋には町名が記されているが、武家屋敷には町名らしき記載がありません。これは、武家屋敷には住所は無かったということです。

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータ『江戸切絵図』より引用させて頂きました。

江戸城三十六見附

早稲田大学図書館古典籍総合データベース」より引用させて頂きました。

1 浅草橋門(浅草見附)外曲輪 枡形門 2 筋違橋門(筋違見附)外曲輪 枡形門    

3 小石川門 外曲輪 枡形門      4 牛込門 (牛込見附) 外曲輪 枡形門   

5 市谷門 (市ヶ谷見附) 外曲輪 枡形門 6 四谷門 (四谷見附) 外曲輪 枡形門        7 喰違門(喰違見附)外曲輪 冠木門  8 赤坂門 (赤坂見附) 外曲輪 枡形門

9 虎ノ門 外曲輪 枡形門       10 幸橋門 外曲輪 枡形門                 

11 山下橋門 外曲輪 枡形門         12 数寄屋橋門 内曲輪 枡形門            

13 鍛冶橋門 内曲輪 枡形門      14 呉服橋門 内曲輪   枡形門             

15 常盤橋門 内曲輪 枡形門      16 神田橋門 内曲輪   枡形門             

17 一ツ橋門 内曲輪 枡形門         18 雉子橋門 内曲輪    枡形門             

19 竹橋門 北の丸 枡形門             20 清水門 北の丸 枡形門 重要文化財

21 田安門 北の丸 枡形門 重要文化財 22 半蔵門 吹上 枡形門  

23 外桜田門 (桜田門) 西の丸下 枡形門 重要文化財

24 日比谷門 内曲輪 枡形門       25 馬場先門 西の丸下 枡形門            

26 和田倉門 西の丸下 枡形門         27 大手門 三の丸 枡形門 特別史跡

28 平河門 三の丸 枡形門 特別史跡   29 北桔橋門 本丸 桝形門 特別史跡   30 西の丸大手門 西の丸 枡形門 特別史跡 

31 西の丸玄関門 西の丸 (西丸書院前門・二重橋)            

32 坂下門 西の丸 枡形門       33 内桜田門 (桔梗門) 三の丸 枡形門

34 下乗門 (大手三ノ門) 二の丸  枡形門  35 中之御門  本丸                             

36 中雀門 (御書院門) 本丸 枡形門 特別史跡

江戸城三十六見附以外に芝口見附(東海道)、浜大手門がある。

江戸城の門

外郭城門19門、本丸・二の丸・三の丸城門9門、西の丸・西の丸下・吹上城門7門、北の丸城門3門、(諸門概数)本丸諸門29門、二の丸諸門7門、三の丸諸門1門、西の丸諸門28門、紅葉山諸門6門、吹上諸門16門の多数の門が置かれていた。

江戸城三十六見附とは、江戸城に置かれた見附(見張り番所)のうちの主な36か所を挙げたもの。堀に架けられた橋と一体的に設置されたものが多い。

見附とは、本来、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所に由来する言葉である。江戸城の見附は、見張り役の番兵が駐在する城門のことを言い、門の内側に番兵が滞在できる番所があった。俗に江戸城には36の見付があったといわれ(江戸城三十六見附)、現在も四谷見附・赤坂見附など、地名として残っている。

実際には、江戸の城門の見張り場所自体はもっと多数あったようだが(66、90など諸説あり)、枡形門を持つ見附は、幕府作事方の資料によると外曲輪に26門あり、内曲輪にいくつあったかは明らかになっていない。語呂の関係から、枡形の26門に、目ぼしい10門を足して「三十六見附」とし、江戸の名所として喧伝されたようである。

ウィキペディアWikipedia)』より引用

江戸城三十六見附」という呼び名があるにもかかわらず、「見附」と呼ばれているのは、浅草見附、筋違見附、牛込見附、市ヶ谷見附、四ッ谷見附、喰違見附、赤坂見附である。

江戸から地方に伸びる道として五街道がある。この五街道それぞれの外濠の通過点は、甲州道は「四ッ谷橋」、中仙道は「筋違橋」、そして奥州道、日光道は共通して「浅草橋」である。見附とは主要街道の出入り口の呼び名と思われます。牛込見附は、上州道の通過点、市ヶ谷見附は、成木道(青梅街道)、そして赤坂見附は、大山道の起点です。喰違見附は枡形ではなく、冠木門である。徳川家康が初めて江戸に入ったころ、甲州から江戸に通じるこの地に番所(伊賀番所)が置かれ、これが、喰違見附の起源と思われます。天下普請で、このあたりの丘を削って、外濠を作ったときも、この門は便宜上、整備されて残った。しかし、甲州道の守りは四ッ谷見附が担うことになったので、喰違見附に堅牢な城門はつくられなかった。

次回、浅草見附にタイムスリップ。

 

古地図(江戸切絵図、浮世絵、古写真)を片手に江戸城三十六見附にタイムスリップ

記事引用一覧 引用先を開きますと拡大した鮮明画像が見られます。

『江戸切絵図』嘉永2年(1849)  『江戸名所図会』天保5年(1834)から同7年(1836)

神田川通絵図』天明5年(1785)   『名所江戸百景』安政3年(1856)から同5年(1858)

『江戸絵図』正保元年(1644)       『絵本江戸土産』嘉永3年(1850)

『錦絵(浮世絵)でたのしむ江戸の名所』文政12年(1829)

国立国会図書館デジタルコレクションオープンデータより引用

『旧江戸城写真帖』(六十四枚)明治4年(1871) 蜷川式胤編  1帖   重要文化財

東京国立博物館オープンデータより引用

江戸城御外郭御門絵図』御作事方大棟梁甲良豊前享保2年(1717)

神田上水々元絵図』貞享ノ頃 (1684-1687)

東京都立図書館オープンデータより引用 

『正保年中江戸絵図』正保元年-正保3年(1644-1647)

国立公文書館デジタルアーカイブより引用 

参謀本部陸軍測量局 五千分一東京図測量原図』 明治17年 (1884) 

国土地理院所蔵五千分一東京図測量原図より引用

『迅速測図』明治16年 (1883) 測量  『空中写真』

国土地理院ウェブサイトより引用 

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アメリカ合衆国パブリック・ドメイン・マーク 1.0より引用 

CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供より引用 

Gettyミュージアムコレクションオープンコンテンツより引用 

引用表示の無い「古写真」「浮世絵」はウィキペディアWikipedia)』より引用

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川瀬巴水版画作品集 19 『日本風景選集 岡山 内山下』

『日本風景選集 岡山 内山下』 大正12年

 岡山城を“城山”と見立て、岡山城の城下の地域を「山下(さんげ)」と呼んでいました。

「内山下」は、岡山城の内堀の内側に位置していたことから名付けられたものです。本丸、二ノ丸です。対して、外堀に面した地区は「中山下」と呼ばれています。

「山下」という地名は珍しいですが、岡山県内には高梁城下に内山下があり、津山城下にも山下の地名があります。

国立公文書館デジタルアーカイブ オープンデータ

 

縄張図片手に廻るお城 菅谷館 本郭

月々に出枡形見る月は多けれど 出枡形見る月はこの月の出枡形

安岡正篤(やすおか・まさひろ)

安岡正篤は1898年(明治31年)大阪に生まれました。若くして漢学に通じ、『王陽明研究』『日本精神の研究』等の著作で世に知られます。

1931年(昭和6年)には「日本農士学校」を埼玉県菅谷の地に開校します。その狙いは、浮薄な都市文明を離れ、大地にしっかり足を着けて東洋の古典・哲学を学び、己を修めて国家社会の為に真に役立つ“無名にして有力なる”人材の育成でした。

公益財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館説明文より引用

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川瀬巴水 版画作品集 18『日本風景選集 岡山城』 昭和9年作

『日本風景選集 岡山城』 昭和9年

旭川対岸より見る天守

国立国会図書館デジタルコレクション、ボストン美術館、シカゴ美術館、アーサー・M・サックラー・ギャラリーパブリックドメインウィキペディアより引用させて頂きました。

現在の写真               1945年(昭和20年) 6月29日岡山大空

                    焼失前の写真