san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻るお城 菅谷館 二ノ郭 南郭

畠山 重忠は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人

源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて一族もろとも滅ぼされた(畠山重忠の乱)。館は、鎌倉筋替橋の東南。

存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。

鵯越の逆落とし 

範頼と義経摂津国福原(現在の兵庫県神戸市)まで復帰していた平家を討つべく京を発向。重忠は範頼の大手に属している。『平家物語』では義経の搦手に属し、これを基に話を膨らませた『源平盛衰記』では鵯越の逆落としで大力の重忠は馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下っている。一ノ谷の戦いで鎌倉軍は大勝して、平家は讃岐国屋島へと逃れている。

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川瀬巴水 版画作品集17 『日本風景選集 岡山後楽園』

『日本風景選集 岡山後楽園』 昭和9年

後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成した。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいた。1871年明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めた。

1871年明治4年)2月7日に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放した。この時、「御後園」の名称を中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)からとって「後楽園」と改めた。

ウィキペディアWikipedia)から転載。有難うございます。

今日の政治家はこの言葉を煎じて何杯も飲んで欲しいものです。

延養亭(えんようてい)後楽園の中心的建物。

藩主の居間で、園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失し、昭和三十五年(1960)に第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元されました。 園内外の景勝が一望できるように作られており、歴代藩主もここから眺めました。

写真は巴水の浮世絵と同じにように偶然、延養亭の前を人が歩いていますが、残念ながら鶴は渡って来ていません。

松の植え込み等も戦災に遭う前と大体同じように植えられています。

胡蝶蘭 水栽培

1月中旬にいただいた胡蝶蘭です。

花が散り、初めて水栽培を試してみました。

開花しました(喜)。

水栽培にご興味をもたれた方は「胡蝶蘭 水栽培」で検索してみてください。

楽しいものですね。

 

縄張図片手に廻るお城 菅谷館 三ノ郭

建物跡は、掘立柱の建物で桁行7間、梁間4間(15×7.2メートル)の大きな建物から桁行3間、梁間2間(6×2.5メートル)の小さなものまであり、現在、本館の前に丸太を建てて建物があったことを標示しています。この建物跡は、柱と柱の間隔の長さや、出土した遺物から江戸時代のものと推察されます。

発掘調査で検出された7m×15mの規模の柱穴跡から復元したものです。

 井戸跡は、深さ2~3メートルの素掘りの井戸で、発掘中も常時水が湧いていました。

嵐山町web博物誌ホームページより引用

二ノ郭桝形復元図(画 田畑修)嵐山町web博物誌ホームページより引用

三ノ郭から二ノ郭へ入る小口は、桝形となっており、堀にかかる木橋を側面から包み込むように土塁が「コ」字形にめぐらされています。現在では土塁と堀の一部が失われてしまっていますが、畠山重忠公の像の西側が小口の場所となります。

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川瀬巴水 版画作品集16 『旅みやげ第二集 さぬきの高松城』 大正10年作

『旅みやげ第二集 さぬきの高松城』 大正10年作

高松城米蔵曲輪艮櫓

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