san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る五稜郭 五稜郭タワーより見る五稜郭 

五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府により新しく開港され防備の必要となった蝦夷地箱館郊外に建造された稜堡式城郭である。同時期に築城された長野県佐久市龍岡城も稜堡式城郭であり「五稜郭」と呼ばれるが、単に「五稜郭」といえば函館の「五稜郭」をさす場合が多い。また近くに「四稜郭」も有ります。

1854年安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府松前藩領だった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置した。1855年安政2年)7月にフランスの軍艦「コンスタンティーヌ号」が箱館に入港した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている。

1857年安政4年)7月に五稜郭の築造を開始。1864年元治元年)に竣工。6月15日に箱館奉行小出秀実奉行所五稜郭内に移転し業務を開始した。

大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、1868年(慶応4年)10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸、10月26日に五稜郭を占領した。翌1869年(明治2年)5月15日に弁天台場が降伏、16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議により5月18日に榎本らが降伏して五稜郭は新政府軍に引き渡された。

五稜郭は、水堀で囲まれた五芒星型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に奉行所などの建物が建築された。その他、郭外北側に役宅街が造られた。現在の敷地面積(国有地部分)は、郭内外合わせて250,835.51平方メートルであり、うち郭内は約12万平方メートルである。

 外構

予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、外構工事は縮小された。当初5ヶ所を計画していた半月堡は1ヶ所のみ、内岸沿いの低塁も3辺のみ、郭外の長斜坂も4辺しか造られなかった。

土塁

堀を掘った土で土塁を築いた。本塁の高さは7.5メートル、幅は土台部分で30メートル、上部の塁道が8メートルあり、塁道は砲台として使用された。そのほか郭内への入口の奥に高さ5.5メートルの見隠塁、堀の内岸に高さ2メートルの低塁、郭外に高さ1メートル強の長斜坂が築かれた。

総堀のほか、郭内への入口3ヶ所の両側に幅4メートルの空堀が造られた。総堀の幅は最も広い所で約30メートル、深さは約4ないし5メートル、外周は約1.8キロメートル。築造当時、五稜郭の裏手約1キロメートル離れた亀田川に取水口を設け、地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。

石垣

大手口から入って左側の本塁の石垣。最上部に刎ね出しがある。右奥に見えるのは見隠塁。当初は総堀のほか土塁全てに石垣を築く「西洋法石垣御全備」を計画したが、費用が嵩むとともに石の切り出しに時間がかかることから中止され、石垣は堀のほか半月堡と郭内入口周辺にしか築かれなかった。半月堡と大手口の本塁の最上部には「刎ね出し(武者返し)」が付いている。

現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっているが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた。

建物

五稜郭内には、奉行所庁舎のほか、用人や近習の長屋、仮牢など計26棟が建てられた。

奉行所

郭内中心部に建てられた。規模は東西約97メートル、南北約59メートルで、建物面積は約2,685平方メートル。一部2階建であり、西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた。また役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていた。

正面玄関を入った先に高さ約16.5メートルの太鼓櫓が設けられたが、箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際に、その照準となっていると考えた旧幕府軍が切り倒している。

兵糧庫

築造当時から唯一現存する建物である。明治30年代に函館要塞砲兵大隊の兵舎として使用され、1972-1973年と2001-2002年に復元工事が行われ現在の姿となった。

板庫・土蔵

奉行所復元と同時に、兵糧庫の北側にあった市立博物館五稜郭分館を解体し、板庫(いたくら)と土蔵を復元している。板庫は売店および休憩所、土蔵は管理事務所に使用されている。

軍備

旧幕府軍五稜郭を占領した時には、二十四斤砲4門が配備されていた。

箱館総攻撃の際、旧幕府軍は、二十四斤加農砲9門、四斤施条クルップ砲13門、拇短クルップ砲10門を配備していた。

五稜郭に配備されていたものではないが、箱館戦争で使用された大砲が2門、郭内に展示されている。1門は、旧幕府軍箱館占領中に構築した築島台場に備え付けられた砲(英・ブラッケリー社製)で、もう1門は明治2年5月11日の箱館湾海戦で沈没した新政府軍の軍艦「朝陽」の砲(独・クルップ社製)である。

                     ウィキペディアWikipedia)より引用

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 五稜郭石碑          五稜郭説明板         「五稜郭之図」 

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       五 稜 郭 タ ワ ー よ り 見 る 五 稜 郭 

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