san-nin-syuの城旅

san-nin-syuの城旅

「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

              ★San-nin-syuの城旅「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします★ 右サイドバーカテゴリーより見たいお城をクリックしてください★

縄張図片手に廻る杉山城 中世山城縄張の教科書 大手口

杉山城は私有地と言う事ですが、地権者さまが史跡保護に大変御理解のある方で、下草も刈って整備されています。この素晴らしい中世のお城を私たちが堪能出来るのも地権者さまのおかげです。感謝申し上げます。誠に有難うございます。

杉山城は標高95m、比高は42m、中世山城縄張の教科書と言われています。折れ、横矢掛り、食い違い虎口、折れ虎口があちこちに有り私も記事を書いて迷子になる事がありました。誤っている点もあると思いますがご容赦ください。

出郭、大手口、外郭、馬出郭、南三の郭、南二の郭、井戸郭と郭を一つ一つ落としながら本郭に向かって攻め進んで行きます。

f:id:san-nin-syu:20210329120337j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120345j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120354j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120401j:plain

●現在地 大手口

f:id:san-nin-syu:20210329120424j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120432j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120441j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120504j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120511j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120521j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120553j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120605j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120622j:plain

●現在地 外郭からの大手口への横矢掛り

f:id:san-nin-syu:20210401221752j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120720j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329120741j:plain

 中世の山城。空堀跡の深さの目安 堀巾上部から大体45度の角度で薬研堀の形で掘り下げていきます。深さが幅の半分になったところで両側の斜面がぶつかります。堀巾の二分の一が大体の深さです。

f:id:san-nin-syu:20210403225134j:plain

又は大体、100年で1m位埋まって行きます。

例として箕輪城上野国)の空堀が現在幅40m深さ15m。発掘調査にて堀は6m程埋まっていることが判明しています。築城時21mの深さです。築城後約500年で6mです。

土壌や気候の関係で一概には言えませんが大体の目安として山城見学の参考にしてください。 

空堀を堀る時の土砂を利用して掻揚土塁を造った。傾斜はたたき土塁で45度芝土塁で60度位です。土塁内側からの高さは低くて約2メートル、高くて3メートルほどありました。山城の土塁で原型を留めているお城は数多くはありません。また、盛土ではなく山の斜面を切土して勾配をつけ切岸にした。切岸の下は必然的に帯曲輪又は腰曲輪になります。角度は45度から60度位です。土塁も切岸も維持管理を考えて45度位が多いです。

杉山城の空堀の深さ土塁の高さなどを想像して廻るとこのお城の凄さが一層見えてきます。

漢方の製薬に用いる鉄製の道具「薬研」 左にある車輪状の道具が「薬研車」、右にある舟形の容器が「薬研」。合わせて「薬研」という。薬研のごとく断面がV字形になっている薬研堀

 

f:id:san-nin-syu:20210329121609j:plain
f:id:san-nin-syu:20210329121618j:plain

「薬研」 毛呂山町歴史民俗資料館蔵
本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。

 

ブログ開設1年です

今日でブログ開設して丁度1年目です。1年間飽きずに当ブログを見て頂き感謝申し上げます。また多くの★印、コメント有難うございます。はてなブログアクセス解析による今日までのアクセス数は46,396です。平均すると1日に127名の方々にお城の記事、写真を見て頂きけることは大変うれしく又励みになります。今後も本ブログをよろしくお願いいたします。

2020年4月5日の開設時の記事です。

お待たせしました。「歴史を廻る会」のブログを開設いたしました。

このブログでは、散策会に参加された様子などを文字と写真で紹介をしていく予定です。たくさんのコメントもお願いします。

の文面で始まりましたがコロナ過の影響で翌日から散策会中止及び延期の記事が並びました。

4月9日の記事で

「昇らない陽は無い」

コロナウイルスに負けずに皆さん頑張りましょう。

f:id:san-nin-syu:20210404101954j:plain

と書きましたが1年経ても同じ記事を書くとは想像もしていませんでした。

ワクチン接種も始まりました。私たちが接種出来るのはまだまだ先の話ですが陽が昇る日は近づいています。会員の皆様方と共に楽しいお城を廻る旅が出来るのを心待ちにしています。

訪れたいお城が有りましたら会に遠慮なくご連絡ください、皆様と一緒に企画を考えていきたいと思います。

コロナウィルスに負けずに頑張る写真

f:id:san-nin-syu:20210404102356j:plain
f:id:san-nin-syu:20210404102409j:plain
f:id:san-nin-syu:20210404102443j:plain
f:id:san-nin-syu:20210404102432j:plain
f:id:san-nin-syu:20210404102454j:plain

皆様の一層のご自愛お祈り申し上げます。

 

特別展「豊臣の美術」

大阪市立美術館大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-82〔天王寺公園内〕)にて、特別展「豊臣の美術」を2021年4月3日(土)より5月16日(日)まで開催いたします。織田信長の遺志を継いで全国統一をなしとげ、大坂に政治拠点を定めた天下人・秀吉とその一族は、強大な権勢と富を手中におさめ、絢爛豪華な桃山文化を隆盛へと導きました。豊臣氏がリードした文化創造のトレンドは、人々の美意識に大きな変革をせまり、桃山美術の潮流を醸成する原動力となりました。本展では、これら豊臣ゆかりの品々から国宝3件、重要文化財22件を含む約80点を精華をよせ、激動の時代を映す壮麗な造形をご紹介します。

会  期 2021年4月3日(土)~5月16日(日)

詳しくはこちらのサイトへ

https://www.artpr.jp/osaka-art-museum/toyotomi

この記事は

「Webサイト:大阪市立美術館

「URL:https://www.artpr.jp/osaka-art-museum/toyotomi」より引用しています。有難うございます。

発掘現場、企画展、一般公開情報、博物館イベント等へ行かれる場合には必ず公式の情報をご確認下さい。

ネットや新聞、出版物等のお城の情報を記事にしています。著作権その他の権利に触れる可能性がある情報が多いので多くのニュースは発信出来ませんがご参考にしてください。

縄張図片手に廻る杉山城 中世山城縄張の教科書 出郭

杉山城は私有地と言う事ですが、地権者さまが史跡保護に大変御理解のある方で、下草も刈って整備されています。この素晴らしい中世のお城を私たちが堪能出来るのも地権者さまのおかげです。感謝申し上げます。誠に有難うございます。

f:id:san-nin-syu:20210327172137j:plain
f:id:san-nin-syu:20210327172149j:plain
f:id:san-nin-syu:20210327172204j:plain
f:id:san-nin-syu:20210327172216j:plain
f:id:san-nin-syu:20210327172240j:plain

現地説明板複写

国指定史跡杉山城跡
この城は室町~戦国時代の築城と推定される典型的な山城である。総面積は7.6haにも及び、急峻な丘陵を巧みに利用して十余の郭を理想的に配している。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも有数の城である。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えに当時の高度な築城技術が偲ばれる。また、城の立地についても北方で四津山城(高見城)越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して松山城鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。築城年代や城主名等に不明な点も多いが、一説には松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えられている。(埼玉県教育委員会 嵐山町教育委員会)

f:id:san-nin-syu:20210327172511j:plain
f:id:san-nin-syu:20210327172534j:plain
f:id:san-nin-syu:20210327172550j:plain

●現在地 出郭

f:id:san-nin-syu:20210327172649j:plain
f:id:san-nin-syu:20210327172702j:plain
f:id:san-nin-syu:20210327172731j:plain

出郭から郭を一つ一つ落としながら本郭に向かって攻め進んで行きます。

市野川左岸の山の上に築かれた山城である。築城主は不明。地元豪族金子主水の築城によるとの伝承はあるが、文献資料にはあらわれない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは山内上杉氏時代の城である可能性が非常に強くなってきた。

この縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違を「杉山城問題」と呼んでいたが、後に発掘調査を裏付ける文書の提示により文献史学的観点を含めた見解の相違へと深化している。

杉山城問題 杉山城の築城を山内上杉氏によるものとする根拠は、次のとおりである。

 遺物の型式及び様式が、瀬戸美濃産陶器;古瀬戸後Ⅳ新段階〜大窯1段階(15世紀後半〜16世紀初頭)(藤澤1993,1996,2001など)

常滑甕10期;1450〜1500

明青花皿(染付皿B1類、15世紀後半〜16世紀初頭)(森田1982)

白磁皿C群(15世紀後半〜16世紀初頭)(小野1982)などいずれも15世紀後葉から16世紀前葉の様相を示す。

  • 山内上杉氏に関連する遺跡(城など)から出土する体部が直線的に開く独特な器形のかわらけ(土師質皿)の出土。
  • 16世紀中葉から後半の後北条氏時代の遺物が出土しない。
  • 遺物が二次被熱を受けて、遺構の一部である焼けた壁土の破片や炭化物と共伴する状況で出土し、特に3号土坑から焼けた壁土とともに出土した常滑焼破片が周囲の遺構面の破片と接合する(同一個体)であることから遺構と遺物の同時性がうかがわれる。

さらに近年、『足利高基書状写』に「椙山之陣」と記されている事が判明し、この書状の原本が天文15年(1546年)の河越夜戦以前の史料であることは明白なことから、上記の調査成果とも合致する内容となっている。このような事情で遺物から見た場合には、杉山城の築城が後北条氏によるものである可能性は低くなった。

一部の縄張り研究者は、そもそも陶磁器のような商品は生産・流通・使用・廃棄まで相当にタイムラグがあり、しかも杉山城のような前線基地に最新の生活用品を持ち込むとは想定し難い。また、松山城 (武蔵国)のように歴史上明らかに戦国末期まで使用された城でも、発掘調査では16世紀中頃までの遺物しか出てこず、最新の生活物資を伴わないような城の使われ方が存在した可能性があることから、部分的な調査の出土遺物で年代を決めることに対し慎重な意見もある。時系列で見ても、戦国前期の相模・武蔵地域の城の縄張りは総じて単純で、杉山城のものに類似する城は無く、後北条氏滝山城虎口に類似していること及び曲輪から「コ」字もしくは「J」に張り出しをつくって、正面は土塁で固め、側面に出入り口を設けて防御を強化した「比企型虎口」の形成過程をたどると、15世紀末〜16世紀初頭の他の城との技術的相違が見られる。更に、「椙山之陣」と杉山城の構造は当時の陣のあり方にそぐわず、両者をイコールとは必ずしも言えない事から、後北条氏の築城の可能性を主張する。しかし、一方では縄張り研究者も縄張りから築城主体や築城年代を推し量る事はできない事を認めている。

なお、杉山城について、山内上杉家の家宰を務めた長尾顕忠の居城であったとする説がある。この説は当初竹井英文が主張し、竹井は後にこの説を撤回したが、一方で黒田基樹が再びこの説を主張している。  ウィキペディアWikipedia)から引用

本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。

高知城の瓦めぐる戦国ミステリー

2000年、高知城三の丸では、長宗我部時代の石垣が発掘されそこから、ある「瓦」が出土しました。歴史研究家が大いに注目したのが、瓦に入った「桐の紋章」。これこそまさに、足利将軍家織田信長豊臣秀吉など、歴史に名をはせるときの武将が使っていた伝統と格式のある家紋だったのです。いったいなぜこれほど貴重なものが、高知で見つかったのか。いつの時代のものなのか、発掘から21年経った今も、詳細は、明らかになっていません。この謎に迫ろうと、先週、高知市で開かれたシンポジウムで、3人のお城好きの歴史研究家がそれぞれの説を唱えました。

詳しくはこちらのサイトへ

https://www.kutv.co.jp/evening_kochi/evening_kochi-722475/

この記事は

「Webサイト:KUTVテレビ高知

「URL:https://www.kutv.co.jp/evening_kochi/evening_kochi-722475/」より引用しています。有難うございます。

ネットや新聞、出版物等のお城の情報を記事にしています。著作権その他の権利に触れる可能性がある情報が多いので多くのニュースは発信出来ませんがご参考にしてください。

 

 

縄張図片手に廻る松本城 天守ライト・アップ

f:id:san-nin-syu:20210312104128j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104135j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104144j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104150j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104209j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104216j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104223j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104229j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104248j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104300j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104307j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104314j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104338j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104346j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104358j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104406j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104432j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104443j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104452j:plain
f:id:san-nin-syu:20210312104503j:plain

松本城世界遺産登録の取組み

松本城世界遺産登録の運動は、「国宝松本城世界遺産に」推進実行委員会(平成13年7月設立、事務局:政策課、信濃毎日新聞社)が中心に進めています。国宝松本城世界遺産に登録されるためには、まず、日本の世界遺産登録暫定リストに登録されることが必要で、教育委員会としては、関係機関や専門家、他の城郭都市等と情報交換しながら、「顕著な普遍的価値」の証明等学術的研究を進めています。

松本古城会の働きかけ

平成5年は築城から400年目の節目として「国宝松本城400年まつり」が開催されました。松本古城会は、400年まつり以後の運動として松本城世界遺産登録を目指そうという機運を盛り上げ、平成9年「松本城世界遺産登録に向けた運動の取組み」を進めることを正式に決定しました。

松本古城会の神沢邦雄会長(当時)は、「松本城を子孫に世界遺産として残すことは私たちの責務であり、市民運動として盛り上げたい。市も積極的に取り組んでほしい」という思いで、翌年に松本市松本市議会へ陳情を実施し、次の3点を要望しました。

世界遺産の登録を目指すことを市の総合計画で明確にすること
・城の特別史跡指定を早期実現
・行政と市民が一体となった推進運動の展開

同会は、平成12年には、林田文化庁長官を訪問し、世界遺産特別史跡に向けた意見交換を行い、取り組みを積極的に進めました。

松本市は、平成13年に「国宝松本城世界遺産に」推進実行委員会(以下実行委員会と呼ぶ)を発足させました。設立趣旨書には「先人の努力で保存されてきた松本城を次世代に伝えることは、私たちの責務。恒久的保存と松本の歴史文化を世界へ発信することが求められている」とあります。松本市や市教育委員会、松本古城会、松本商工会議所の外、市内の経済・文化・ボランティア団体等54団体が実行委員に加わりました。

私達お城ファンも微力では有りますが、松本城世界遺産登録を応援していきたいと思います。

本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。

武田信玄は、2021年に生誕500年を迎えます

郷土の英雄として現在も様々な形で語り継がれる武田信玄(1521~73)は、2021年に生誕500年を迎えます。信玄は甲斐国から信濃・上野・駿河などに領国を拡大して全国有数の戦国大名となり、川中島の戦いなどの合戦や、信玄堤に代表される政策など、後世まで大きな影響を与えました。
本展では、武田信玄の53年の生涯について、年代順に関連資料を紹介してその業績を振り返るとともに、信玄が生きた戦国時代の社会、信玄と争った戦国大名、信玄を支えた一族と家臣団等について総合的に紹介します。

期間 令和3年3月13日(土曜)から5月10日(月曜)

詳しくはこちらのサイトへ

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3nd_tenjiannai_20tokubetsu002.html

この記事は

「Webサイト:山梨県立博物館

「URL:http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3nd_tenjiannai_20tokubetsu002.html」より引用しています。有難うございます。

発掘現場、企画展、一般公開情報、博物館イベント等へ行かれる場合には必ず公式の情報をご確認下さい。

ネットや新聞、出版物等のお城の情報を記事にしています。著作権その他の権利に触れる可能性がある情報が多いので多くのニュースは発信出来ませんがご参考にしてください。