san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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江戸城散策会のお知らせ

コロナ感染防止により延期になっていた江戸城散策会の件です。
先月の6月8日より皇居内の見学が再開しています。

つきましては、早急ではありますが『夏休み特別限定企画』として江戸城散策会を下記の内容で行います。

江戸城散策会と神田川クルーズ(申し込み受付中)

  日時:8月28(土)
  集合:東京駅丸の内北口改札:10時
  会費:5000円(当日集金)
 

 

   約3時間の見学後、昼食(自由)をとり日本橋船乗り場へ移動。
  神田川周遊クルーズ14:30~16:00
(参加人数により貸切船になる場合あり)
  江戸城の石垣、お茶の水分水路など歴史的構造物が残る神田川を一巡りします。
  日本橋解散:16時頃

★当会で作成する「(仮)江戸城見学の裏ワザ・小ネタガイド」をお配りいたします。
★この散策会の案内人は会長の予定です。

※スタンプ捺印はありません。クーポン利用はできません。
※専用のマイレシーバーが必要な方は2000円でご購入下さい。買取不要という方は1台1000円にてレンタルいたします。最近の調査でイヤーホーンの耳に当てる部分から多くの細菌が検出されています。イヤホーンだけはご自身でご用意ください。(100円ショップにもあります)


お申込み・問い合わせ先~事務局担当:植木

※090-9852-0735  Gメールアドレス kondesu22@gmail.com

水戸城跡の景観整備 二の丸角櫓、完成祝う

6月27日から公開

歴史文化財課によると、水戸城には四つの角櫓があり、復元したのは二の丸南西角の二の丸角櫓。

角櫓は歴史的資料や時代考証を重ねて当時と同じ姿や規模で復元した。幅約15.7メートル、高さ約9.6メートルで、中央の角櫓と、北側と東側に接続する二つの多聞櫓で構成。2018年3月に着工し、20年10月に復元が完了した。大手門と接続する白壁土塀も整備された。

詳しくはこちらのサイトへ 

https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16247065152737

この記事は

「Webサイト:茨城新聞社

「URL:https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16247065152737」より引用しています。有難うございます。

コロナ過の折です。発掘現場、企画展、一般公開情報、博物館イベント等へ行かれる場合には必ず公式の情報をご確認下さい。

ネットや新聞、出版物等のお城の情報を記事にしています。著作権その他の権利に触れる可能性がある情報が多いので多くのニュースは発信出来ませんがご参考にしてください。

縄張図片手に廻る彦根城 埋木舎 桜田門外の変

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●現在地 埋木舎

彦根藩35万石の第11代城主直中の十四男として彦根城内に生まれる。1831年天保2)17歳の直弼は、井伊家の家風に従って、藩から300俵の宛行扶持をもらい、尾末町の北の屋敷に移った。この北の屋敷を埋木舎と名づけ、1846年(弘化3)直亮の養子となるまでの15年間、ここで部屋住みの生活をした。

その時、次のような歌を詠んでいる。

「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」

自らを花の咲くこともない埋もれ木と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけ、それでも自分には「為すべき業」があると精進した。

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埋木舎

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                 蓮田市五郎絵巻 ウィキペディアから転載

 安政7年3月3日(1860年3月24日)に、井伊直弼大老が登城中に暗殺される「桜田門外の変」が発生した。襲撃者は関鉄之介ら水戸藩浪士17名と薩摩藩藩士1名の計18名。彼らは前夜、品川宿土蔵相模において宴をはり、翌早朝出発して愛宕神社で祈願をしたあと江戸城桜田門前に向かった。

 水戸浪士集合地の桜田烈士愛宕山遺蹟碑(愛宕神社、現・東京都港区愛宕一丁目五番三号)

桜田18烈士 
水戸藩脱藩浪士)関鉄之介、岡部三十郎忠吉、稲田重蔵正辰、山口辰之介正、鯉淵要人珍陳、広岡子之次郎則頼、黒澤忠三郎勝算、斎藤監物一徳、佐野竹之助光明大関和七郎増美、森五六郎直長、蓮田市五郎正実、森山繁之介政徳、海後磋磯之介、杉山弥一郎当人、広木松之介有良、増子金八、(薩摩藩士)有村次左衛門。アンダーライン籠脇の3名。

 水戸藩脱藩の一人、蓮田市五郎は事件後、傷を負いながらも老中脇坂中務大輔邸に趣意書を持って自訴。その後、細川越中守邸お預けになっている間に、請われて描いたという絵巻が残っています。(蓮田市五郎は絵を能くしたため、細川邸にて事変の詳細を描いた)  

桜田門外の変始末記

水戸藩薩摩藩側) 討ち死、自刃、刑死、獄死16名。

襲撃に関与した人物 自刃、刑死、獄死17名。

彦根藩側) 藩主である直弼以下9名が死亡。

重傷者8名は減知の上、藩領だった下野佐野に配流処分。

「士道不覚悟」により軽傷者5名は切腹

無疵の士5名斬首・家名断絶。

彦根藩は幕府より石高を35万石から25万石に減封、藩主の京都守護の家職を剥奪され、会津藩主・松平容保が代わりに京都守護職に任ぜられ、幕末の動乱に突入していきます。

討つ者、討たれる者、志、信条、信念の違いはあれど武士とは厳しいものだと思います。彼等の事の正否を論うことは出来ません、消えざるものはただ誠。

この志、信念を今の政治家、官僚が、(私も)、100分の1でも持っていたらと憤怒の思いで感じます。 

桜田門外の変から7年と7か月後の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成され、同年の江戸開城により明治維新をむかえます。明治維新への直接的ではっきりした起点がこの桜田門外の変であったと思います。

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戸切絵図         外櫻田弁慶堀櫻の井(歌川広重

譜代筆頭の井伊の赤備えとして先陣を務める家柄でもあり、江戸城を守る要衝に屋敷地を拝領していました。(明治時代以降は参謀本部がこここに置かれた)

「江戸切絵図」と「浮世絵」で当時にタイムスリップ

本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。

 



大規模山城 神宮寺城跡が市文化財に 福井県あわら市

最も高いところには主郭曲輪があり、その近くの曲輪を切断するように竪堀がみられる形状は戦国時代の山城の典型で、一乗谷城福井市)も似た特徴を持つ。敵の侵入経路を限定することで守りやすくした。

詳しくはこちらのサイトへ

http://www.city.awara.lg.jp/mokuteki/education/kyoudo/kyoudorekishishiryo/awarashinobunkazai/sisitei/siseki/p011922.html

この記事は

「Webサイト:あわら市郷土歴史資料館」

「URL: http://www.city.awara.lg.jp/mokuteki/education/kyoudo/kyoudorekishishiryo/awarashinobunkazai/sisitei/siseki/p011922.html」より引用しています。有難うございます。

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縄張図片手に廻る彦根城 三の丸 池田屋敷長屋門

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●現在地 池田屋長屋門

池田屋長屋門(現・彦根市尾末町6−43)は、彦根城の中掘に近い三の丸に建っています。かつて、池田屋敷のあった尾末町一帯には、中級武家屋敷が広がっていました。

当建造物は彦根藩中級武家屋敷の典型をなす貴重な長屋門として、昭和48年に彦根市指定文化財に指定されています。

歴史まちづくり法に基づく事業として、国の補助を得て平成20年度から23年度にかけて全解体修理事業を実施いたしました。建造物調査、発掘調査の結果から、これまで伝承でしかなかった馬屋の跡が実際に確認され、馬屋を復元いたしました。藩士の馬所持については彦根藩では250石以上の藩士は馬扶持を支給されることとなっていた。

池田家は大阪陣以前「伊賀之者」として井伊直政に取り立てられた忍者の家であり、大阪両陣に従軍しています。後、士分となり、4代井伊直興に重用され一時は250石となり幕末期には180石の中堅藩士の家でした。

伊賀御歩行衆は二十人「伊賀御歩行七十人御歩行分限帳」。その先祖は伊賀国阿拝(あえ)郡の郷士であり、「忍術・火術熟得」していた。家老筆頭の木俣家によって代々支配されていました。

あの松尾芭蕉伊賀国阿拝郡柘植郷の生まれです。(芭蕉忍者説・昭和の忍者ブームの時に生まれました)

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「忍者」「忍びの者」「伊賀者」「甲賀者」と聞くとなんとなく闇の戦国時代を感じます。

子供の頃、近所の鉄工所で座金を削って十字手裏剣を作ってもらい、お寺の下見板に打ち込んで遊んだの(修業)を思い出します。(大人になったら忍者になろうと思っていました)

これがまた、良く刺さったんですよ。

忍者本と言えば司馬遼太郎梟の城』 白土三平カムイ伝』。

映画は市川雷蔵「忍びの者」 大瀬 康一「隠密剣士」ですね。

本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

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三河の城散策会の報告

 お待たせしました。6月26日(土)、27日(日)と 三河の城廻りに行ってきました。梅雨らしい空模様のなか、雨雲を潜り抜けながらの2日間でした。

1日目 小里城→妻木資料館→妻木城跡と館跡→市場城

◆小里城跡

駐車場の登城口からすぐに見える石垣、ワクワク感ありです。伝大手門跡、隅石には矢穴がみられました。
天守台→北西部から見た天主台も一見の価値あり見事です。
整備されており割りと歩きやすいです。

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◆妻木城跡
14世紀に土岐頼定の孫土岐明智彦九郎頼重の築城。
上の駐車場脇の登城口から少し歩くと苔むした巨石群がゴロゴロ。楔跡の残る大岩も必見。曲輪3からは遠く御嶽山も眺められます。
また、山麓には妻木陣屋の区画が石垣とともに残されています。

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桔梗の花がお出迎えをしてくれました 巨岩石 虎口と門跡

 

◆市場城跡
14世紀に土岐頼定の孫土岐明智彦九郎頼重の築城。
上の駐車場脇の登城口から少し歩くと苔むした巨石群がゴロゴロ。楔跡の残る大岩も必見。曲輪3からは遠く御嶽山も眺められます。
また、山麓には妻木陣屋の区画が石垣とともに残されています。

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石碑                  畝状竪堀群がよく残っています。

 

 
夕食は残念な事に、コロナ蔓延防止等により、アルコール提供無し😭
静かに食していただきました。早くスッキリと自由になりたいですね

2日目 大給城跡→大沼城跡→昼食→三河山中城跡→岩略寺城跡→豊橋駅
◆大給城
標高207mに立地、石垣・削平地・削崖・物見岩・米流し岩がある山城です。この城の特徴は、西・北・東を古式の 石垣で固め西側の巨岩を物見岩という。東側を区切る石累は この城で最古の 石積み部分だそうです。 
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入口と石碑

昼食にでた地元の五平餅。大きくてビックリ

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 ◆三河山中城
15世紀頃に三河守護代 西郷氏によって築かれた城といわれています。とても良く整備され頂上が本丸。二の丸と繋がっており細長い曲輪です。

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◆岩略寺城跡
1444〜1449年頃に今川氏の一族である関口光興によって築城。戦国時代は西の松平氏、西の今川氏の鬩ぎ合いの城跡となったようです。駐車場は堀切跡です。井戸跡を過ぎると本曲輪。井戸も4つ(?)ほどあり、遺構もしっかりと残存しています。

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マンホールカードもゲットでき、2日間の散策会も無事終了しました。皆様お疲れさまでした💛

 

 

勝龍寺城築城450年を記念した企画展開催

今年は細川藤孝(幽斎)が織田信長の命を受け、勝龍寺城の大規模改修をおこなってから450年目にあたることから、勝竜寺城公園において企画展が開催されます。
また築城450年限定版の御城印も年内限定で販売されます。

期間:
2021年3月20日(土)〜8月31日(火)

場所:
勝竜寺城公園(勝龍寺城跡)管理棟2F展示室内

詳しくはこちらのサイトへ

https://blog.goo.ne.jp/prengkkk/c/86bc7d9844e5fa3b02decbc481e7277c

この記事は

「Webサイト:長岡京市観光協会

「URL:https://blog.goo.ne.jp/prengkkk/c/86bc7d9844e5fa3b02decbc481e7277c」より引用しています。有難うございます。

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