san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る彦根城 埋木舎 桜田門外の変

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●現在地 埋木舎

彦根藩35万石の第11代城主直中の十四男として彦根城内に生まれる。1831年天保2)17歳の直弼は、井伊家の家風に従って、藩から300俵の宛行扶持をもらい、尾末町の北の屋敷に移った。この北の屋敷を埋木舎と名づけ、1846年(弘化3)直亮の養子となるまでの15年間、ここで部屋住みの生活をした。

その時、次のような歌を詠んでいる。

「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」

自らを花の咲くこともない埋もれ木と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけ、それでも自分には「為すべき業」があると精進した。

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埋木舎

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                 蓮田市五郎絵巻 ウィキペディアから転載

 安政7年3月3日(1860年3月24日)に、井伊直弼大老が登城中に暗殺される「桜田門外の変」が発生した。襲撃者は関鉄之介ら水戸藩浪士17名と薩摩藩藩士1名の計18名。彼らは前夜、品川宿土蔵相模において宴をはり、翌早朝出発して愛宕神社で祈願をしたあと江戸城桜田門前に向かった。

 水戸浪士集合地の桜田烈士愛宕山遺蹟碑(愛宕神社、現・東京都港区愛宕一丁目五番三号)

桜田18烈士 
水戸藩脱藩浪士)関鉄之介、岡部三十郎忠吉、稲田重蔵正辰、山口辰之介正、鯉淵要人珍陳、広岡子之次郎則頼、黒澤忠三郎勝算、斎藤監物一徳、佐野竹之助光明大関和七郎増美、森五六郎直長、蓮田市五郎正実、森山繁之介政徳、海後磋磯之介、杉山弥一郎当人、広木松之介有良、増子金八、(薩摩藩士)有村次左衛門。アンダーライン籠脇の3名。

 水戸藩脱藩の一人、蓮田市五郎は事件後、傷を負いながらも老中脇坂中務大輔邸に趣意書を持って自訴。その後、細川越中守邸お預けになっている間に、請われて描いたという絵巻が残っています。(蓮田市五郎は絵を能くしたため、細川邸にて事変の詳細を描いた)  

桜田門外の変始末記

水戸藩薩摩藩側) 討ち死、自刃、刑死、獄死16名。

襲撃に関与した人物 自刃、刑死、獄死17名。

彦根藩側) 藩主である直弼以下9名が死亡。

重傷者8名は減知の上、藩領だった下野佐野に配流処分。

「士道不覚悟」により軽傷者5名は切腹

無疵の士5名斬首・家名断絶。

彦根藩は幕府より石高を35万石から25万石に減封、藩主の京都守護の家職を剥奪され、会津藩主・松平容保が代わりに京都守護職に任ぜられ、幕末の動乱に突入していきます。

討つ者、討たれる者、志、信条、信念の違いはあれど武士とは厳しいものだと思います。彼等の事の正否を論うことは出来ません、消えざるものはただ誠。

この志、信念を今の政治家、官僚が、(私も)、100分の1でも持っていたらと憤怒の思いで感じます。 

桜田門外の変から7年と7か月後の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成され、同年の江戸開城により明治維新をむかえます。明治維新への直接的ではっきりした起点がこの桜田門外の変であったと思います。

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戸切絵図         外櫻田弁慶堀櫻の井(歌川広重

譜代筆頭の井伊の赤備えとして先陣を務める家柄でもあり、江戸城を守る要衝に屋敷地を拝領していました。(明治時代以降は参謀本部がこここに置かれた)

「江戸切絵図」と「浮世絵」で当時にタイムスリップ

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