「比企城館跡群」を廻ってみたいと思います。
小倉城歴史
小倉城跡(おぐらじょうあと)にかかわる同時代の確実な文書は発見されていないが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の重臣遠山氏を城主として伝えています。また、『武蔵志』では遠山氏、或いは上田氏とも伝えています。
小倉城は、攻守一体で様々な工夫が凝らされた削平地をつらねた戦国時代の山城で、通称城山と呼ばれる山の山頂から中腹にかかえて所在している。
小倉城は、外秩父の山地帯と関東平野の境界にあり、大きく蛇行を繰り返す槻川と山地の自然地形を巧みに取り込んだ天然の要害にあります。
城の位置取りは、槻川―都幾川―古荒川水系を基幹に陸路は鎌倉街道上道と山辺の道(八王子城―鉢形城を結び上州へ抜けるルート)の中間で双方へアクセス可能な位置にあり中世の水陸交通を強く意識したものとなっています。
縄張り
本丸に相当する郭1と二の丸に相当する郭2を並列して配置し(並郭式)、郭1南東と郭2南西を堀切り、郭3、郭4を設けています。郭5は独立して井戸沢と呼ばれる谷に面することから「水の手郭」と判断されます。
郭1は土塁の規模、虎口の構造、全ての導線がこの郭に収斂することから他の郭とは序列的に明らかに優先しており本郭(本丸)として位置づけられます。
また、山裾から見ると南からは郭4―郭2―郭1、東からは郭3―郭1、北からは郭1北腰郭―郭1と階段を登るように進まなければ中心である郭1へは入れない構造(梯郭式)となっています。
随所に折れ曲がった導線と虎口を設置し、鍵の手状の横堀と縦堀が組み合わされた大堀切、櫓台、二重堀切、連続縦堀など多彩な技法により普請されています。
この史跡の最大の特徴が、全国的にも珍しい石積み遺構です。平成11年から18年まで実施された調査で、まず郭3をコの字型にかこむ最大高約5m、総延長120mあまりの大規模な石積普請が発見されました。また、現在は埋め戻されていますが、郭1の東虎口から南虎口を結ぶ土塁内側には三段の雛壇状に構築した石積みが確認されました。その他に、郭1の東腰郭に高さ3.5mの石積みが普請されています。
「小倉城跡パンフレット」より引用させて頂きました。
2008年(平成20年)3月28日、国の史跡に指定されていた菅谷館跡(嵐山町)に、追加指定として松山城跡(吉見町)、杉山城跡(嵐山町)とともに追加指定され、「比企城館跡群」の名称で一括して国の史跡に指定された。
「ウィキペディア」より引用させて頂きました。








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