san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る津山城 三の丸より見る備中櫓

城内最大の表中門

表中門は、三の丸から二の丸に至る正門です。門の形式は、櫓門で城内最大の門です。櫓の東側は袖石垣上に載り、西側は鉄砲櫓の高石垣に取り付いています。門の櫓部分の長さは十六間≒28.8mありました。

発掘調査により、東西方向に三列、南北方向に五列(東端五石、西端四石)の礎石が確認できました。

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縄張図片手に廻る津山城 冠木門

国史跡・津山城跡(同市山下)の冠木門(かぶきもん)跡から、門の基礎部分の礎石とみられる大きな石や石積みが出土した。廃城で明治初期に取り壊された門の構造を知る手がかりとなる貴重な遺構で、築造の工程なども明らかになった。

2013年から津山市教委が発掘調査を進めていた冠木門は津山城の三の丸に至る通路上に位置する門で、三の丸の石垣と高石垣の間に築かれた。江戸期に描かれた絵図などの資料から、門の扉の上に屋根を架けた4本柱の構造で、門の両側に袖石垣や土塀があったと考えられている。

その結果、現在の地表面から約80センチ掘り下げた所から、上面が平らな直径約80センチの大きな石が見つかった。さらに幅約50センチ、厚さ約10センチの板状の石が7段から8段に重ねて積まれていた。昨年度の北半分の調査でもほぼ同じ大きさの石が見つかり、石積みも確認されていることから、南北に位置する石は門の柱の土台となる礎石で、この礎石を据えるために板状の石を積んで基礎を安定させていたことがわかった。

南北の二つの石の距離から、門をくぐる扉の幅は約4メートル(2間)だったことも判明した。

津山市教委文化課サイトより引用

 

 

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縄張図片手に廻る津山城(美作国) 三の丸下帯曲輪

切岸 斜面を削って人工的な急傾斜の断崖とし、斜面下からの敵の侵入を防ぐために造られた防御施設

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縄張図片手に廻る津山城(美作国) 森忠政 森一族

                                                                       〔作州津山城図〕大手門への登城道にあたる ので森一族、家老関一族の名が多く見られる。元禄10年(1697)津山城請取に際して作られた絵図。

元亀元年(1570年)、美濃金山城織田信長の家臣・森可成の六男(末子)として生まれる。誕生と同年中に父が戦死(長兄の可隆は父に先立って戦死)したために次兄の長可が家督を継いでいる。

天正10年(1582年)の春頃、「長重」を名乗り織田信長に小姓として出仕するが、同僚の梁田河内守と揉め事を起こし母の元へ返された。結果としてこれが幸いし本能寺の変 に合わずに済んだ。

天正12年(1584年)4月9日、兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死。この時点で既に他の兄達は全て早世しており、家督を継ぐ。

天正15年(1587年)2月6日、豊臣姓を下賜され、従四位下・侍従に叙任された。天正18年(1590年)の小田原征伐では韮山城攻めに参加した。朝鮮出兵の折には、九州の名護屋城普請奉行を勤め、兵2,000を率いて名護屋城下に参陣している。伏見城普請、方広寺大仏建造などにも参加した。

慶長3年(1598年)に秀吉が死亡すると徳川家康に接近。慶長4年(1599年)に伏見城下にて、家康と前田利家石田三成との対立によって双方に味方する諸侯・軍勢が参集し緊張状態となった際には徳川屋敷に参じて3日間詰め、家康より賞詞があった。

慶長5年(1600年)、かねてから希望していた信濃国川中島13万7,500石への加増転封。

関ヶ原の戦いでは東軍に与し、7月21日に家康の会津出兵に先立って宇都宮に着陣し合流を待ったが、7月24日に真田昌幸が西軍と通じ上田へと帰国した事を受けて忠政と石川康長両名は真田への抑えとして領国へと帰還するよう命じられている。

慶長8年(1603年)、小早川秀秋の死によって小早川家が無嗣改易されると美作国一国18万6,500石(津山藩)への加増転封。

津山入り後、忠政は新たな家中の抑えとなる人物を探し、江戸幕府旗本となっていた叔父の森可政の津山藩入りを幕府に希望。幕府もこれを認め忠政は可政に5,000石の所領と執政職の権限を与え、自ら国境付近まで出迎えに赴くなど厚くもてなした。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に参戦。森軍は208の首級を挙げる活躍をした。

寛永11年(1634年)7月6日、京の大文字屋宗味の邸宅で夕食をとり、宿所の妙顕寺へ戻る途中に急激に体調が悪化。強い腹痛と嘔吐感を訴え、治療の甲斐無く7月7日未明に死亡した。死因は桃に当たっての食中毒であるという。享年65。

三代藩主長武は長成に家督を譲って隠居した。その長成は元禄10年(1697年)に嗣子無くして死去。このため、元二代藩主長継は弟の関衆之の養子となっていた自分の九男・衆利を長成の継嗣として認めてもらうよう江戸幕府に訴え承諾された。ところが衆利は継承挨拶のため江戸に出府途中、伊勢で乱心したため、幕府は家督相続承認を取り消し、元禄10年(1697年)に領地を召し上げ、津山藩森家は改易された。

しかし、池田氏岡山藩)、細川氏熊本藩)、前田氏(加賀藩)、浅野氏(広島藩)などかつて森家と交友のあった諸藩から幕府への働きかけがあり、幕府は長継に新たに備中西江原藩2万石を与えることで、森氏の存続を許した。(やっと生き残った森一族が存続できてよかったです)  

宝永3年(1706年)1月28日、播磨赤穂藩に2万石で移封、明治時代まで存続。

忘れ去られた石

 平成10年の台風10号通過後、津山市大谷の石山登山道近くの谷川で、津山城築城時に切り出されたと思われる石が見つかりました。

 石の重さは約2.3トン、近くにある「津山城石切場跡」にある矢穴と同じ大きさものが石の上下に計9か所残っています。津山城築場時に切り出された石に一部であることは間違いなく、何らかの理由で築城現場まで運ばれなかったようです。この石は「忘れ去られた石」と名づけられました。

 平成16年3月に谷川から引き上げられ、同年5月の津山城築城400年記念事業「津山歴史時代絵巻~築城大石曳き~」で大谷町内のみなさんによって"歴史石曳き"として修羅(木製のそり状の運搬具)に載せて市内中心部を約400メートル曳かれた後、津山城跡近くに約400年ぶりに届けられました。

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縄張図片手に廻る津山城(美作国) 旭門跡 宮川門跡

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縄張図片手に廻る津山城(美作国) 京橋門(津山城大手口)

『正保城絵図 美作国津山城絵図』 国立公文書館デジタルアーカイブオープンデータ

出雲街道  

出雲街道は姫路の青山から飾西宿、觜崎宿、千本宿、三日月宿、佐用宿(播磨国)、土井宿、勝間田宿、津山宿、坪井宿、久世宿、高田勝山宿、美甘宿、新庄宿(美作国)、板井原宿、根雨宿、二部宿、溝口宿、車尾宿、米子宿(伯耆国)、安来宿、出雲郷宿松江城三の丸(出雲国)まで全長53里、約210kmあまりの街道です。鉄道が街道から少し外れたこと、山間の街道であったことなどが災いして明治以後はすたれてしまったこところも結構あります。しかし、発達しなかったことが幸いして、古い町並みが残っています。

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縄張図片手に廻る津山城(美作国)

 

             正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。      

津山城跡 国指定史跡

指定年月日 昭和38年9月28日

津山城跡 津山城は、美作一国を領して津山に入封した森忠政が築いた平山城である。忠政は、慶長8年(1603)の入封。翌9年に起工、元和2年(1616)に完成を見た。

その縄張りは鶴山の最高所に平地を広く取って本丸とし、これを取り囲むような形で山腹に二の丸・三の丸を階段状に廻らせ、山の大半を石垣で覆い、南を大手・北を搦手とした。南・西・北の山麓は総曲輪として、その外周を土塁・濠で固め、東側は直下を流れる宮川及び天然の断崖をそのまま防御線に取り込む。さらには、南の吉井川とその支流である西の藺田(いだ)川を防備上の最前線として、その内側に城下町の主要部を形成している。以上の縄張り確定の前提条件として、吉井川の流路を南寄りに固定する治水工事も必要であった。

曲輪ごとの概要。最終拠点となる天守曲輪は本丸の西端に寄せられているが、これは本丸東端に一段高く築かれた石垣と共に、東方の丹後山を意識した構えと見られる。天守は五層で台の石垣も含めて高さ26m余、壁は漆喰塗りの白壁とし、屋根には破風飾りを全く設けず、塔のように聳え立つすっきりとした外観を有しており、その四周は石垣と櫓・塀で厳重に固められていた。本丸は城内の主要部であり、大小の櫓31棟・門15棟を連ねて守りを固め、内側の平坦面に約70の部屋を有する御殿を構えた。限られた敷地を有効に使うためか、外縁部の櫓や門を御殿の一部に当てているのが注目される。二の丸には櫓12棟・門7棟、三の丸には櫓17棟・門11棟が並び、大手・搦手とも通路を複雑に折り曲げてあって容易に本丸へは近付けぬ構えである。三の丸の南・西面下段には馬場が設けられた。なお、北の裏下門付近の廐濠・薬研濠は、嘉吉年間の山名氏築城時の遺構と伝えられる。総曲輪外周の土塁上には17棟の小櫓が並び、6箇所に宮川・京橋(大手)・二階町・田町・作事・北(搦手)の諸門が開かれ、内部には藩の重要施設や重臣の屋敷が置かれていた。

 城下町の配置も巧妙を極める。忠政が一代で作り上げた訳ではなく、現在の城東・城西地区にも町屋が成立して一通りの完成に至るのは寛文年間(1661~73)であるが、特に藺田川・宮川に挟まれる中央部などは築城開始時の計画に基づいて建設されたと考えられるので、概略を以下に記すことにしたい。丘陵が続くために比較的防御が薄く、また洪水でも浸水する恐れの少ない北西部を武家屋敷地とし、町人町を南部に集めた。出雲往来もこの町人町を東西に貫く形で城下に引き込まれており、町屋は往来に沿って東西に進展することになる。宮川の東に迫る丹後山南麓には東寺町と下級武士団の屋敷地を並べて弱点を補強し、藺田川以西にも敷地の広い寺院を集めた西寺町を設けて城下防衛拠点とした。また、備前往来に通じる南西方面にも武家屋敷を集めた。こうして計画的に形成された城下町が、そのまま現在の津山市街の基盤となっている。

森家4代・松平家9代にわたる歴代津山藩主の居城としてその領国経営を支え、文化6年(1809)の本丸御殿焼失以外には大きな損壊を受けることもなかったが、明治の廃藩置県・廃城令によって名実共にその役割を解かれ、明治7年(1874)から翌年にかけて全ての建物が取り除かれた。その後、総曲輪の土塁を崩して濠を埋め立てたことにより、内山下は市街地に取り込まれ、三の丸以内の中枢部も荒れるに任せていたが、旧藩士の間で保存の気運が高まり、明治33年(1900)津山町有の鶴山公園となり、以後はその都度補修・整備されて現在に至っている。

   建物こそ残っていないが、石垣は全体として旧状をよくとどめており、縄張りの巧妙さと築城最盛期の高度な土木技術、そして工事に駆り出された人々の労苦を今に伝える。ある程度加工した石を組み上げ、隙間に小さな石を詰め込んだこの積み方は、打込接(うちこみはぎ)と呼ばれるものである。また、天守曲輪南の入口付近や本丸北方の粟積櫓下の石垣には、刻印を施された石が積まれていて興味深い。これらの石材は、南方の大谷・金屋の山中から切り出したり、周辺の古城の石材を転用したりして集めたものと伝えられている。天守台からは市街地が手に取るように見渡せ、春には公園化以後に植樹された桜の花がまた格別の興趣を添える。

   津山城に関しては、絵図・指図類が多く現存する上に、明治初期の写真が残っているので、往時の姿を想像するのはそれほど難しいことではない。なお津山郷土博物館には、これらの資料に基づいて製作された150分の1の津山城復元模型が常設展示されている。(津山市公式サイトより引用)

津山城全景古写真 松平国忠 (津山藩城代家老、廃藩後に写真館主)明治5年、6年(1872 、 1873)撮影。

津山市(津山郷土資料館所蔵)公式サイトの古写真をWikipedia:ウィキペディアより引用(パブリックドメイン

広島大学工学部によって設計された学術的にもすぐれた精密模型である。縮尺150分の1で、高さは視覚的効果を高めるため一割増しの136分の1としている。各建物の復元にあたっては、江戸時代初めの「正保城絵図」(内閣文庫蔵)を基本とし、江戸中・後期の「津山城絵図」「津山城本丸図」、明治初年の古写真などで補っている。天守閣は5層5階、地下1階。その第4層だけは板葺屋根となっているが、これは幕府に憚って名目4層にみせかける工夫をしたためと伝えられる。本丸御殿と二の丸御殿は、吹き抜けとし室内の遺構がよくわかるように配慮している。全体としては正保(1644~48)頃の状況を再現している。 (津山郷土博物館内の説明文より)

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