san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る津山城(美作国)

 

             正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。      

津山城跡 国指定史跡

指定年月日 昭和38年9月28日

津山城跡 津山城は、美作一国を領して津山に入封した森忠政が築いた平山城である。忠政は、慶長8年(1603)の入封。翌9年に起工、元和2年(1616)に完成を見た。

その縄張りは鶴山の最高所に平地を広く取って本丸とし、これを取り囲むような形で山腹に二の丸・三の丸を階段状に廻らせ、山の大半を石垣で覆い、南を大手・北を搦手とした。南・西・北の山麓は総曲輪として、その外周を土塁・濠で固め、東側は直下を流れる宮川及び天然の断崖をそのまま防御線に取り込む。さらには、南の吉井川とその支流である西の藺田(いだ)川を防備上の最前線として、その内側に城下町の主要部を形成している。以上の縄張り確定の前提条件として、吉井川の流路を南寄りに固定する治水工事も必要であった。

曲輪ごとの概要。最終拠点となる天守曲輪は本丸の西端に寄せられているが、これは本丸東端に一段高く築かれた石垣と共に、東方の丹後山を意識した構えと見られる。天守は五層で台の石垣も含めて高さ26m余、壁は漆喰塗りの白壁とし、屋根には破風飾りを全く設けず、塔のように聳え立つすっきりとした外観を有しており、その四周は石垣と櫓・塀で厳重に固められていた。本丸は城内の主要部であり、大小の櫓31棟・門15棟を連ねて守りを固め、内側の平坦面に約70の部屋を有する御殿を構えた。限られた敷地を有効に使うためか、外縁部の櫓や門を御殿の一部に当てているのが注目される。二の丸には櫓12棟・門7棟、三の丸には櫓17棟・門11棟が並び、大手・搦手とも通路を複雑に折り曲げてあって容易に本丸へは近付けぬ構えである。三の丸の南・西面下段には馬場が設けられた。なお、北の裏下門付近の廐濠・薬研濠は、嘉吉年間の山名氏築城時の遺構と伝えられる。総曲輪外周の土塁上には17棟の小櫓が並び、6箇所に宮川・京橋(大手)・二階町・田町・作事・北(搦手)の諸門が開かれ、内部には藩の重要施設や重臣の屋敷が置かれていた。

 城下町の配置も巧妙を極める。忠政が一代で作り上げた訳ではなく、現在の城東・城西地区にも町屋が成立して一通りの完成に至るのは寛文年間(1661~73)であるが、特に藺田川・宮川に挟まれる中央部などは築城開始時の計画に基づいて建設されたと考えられるので、概略を以下に記すことにしたい。丘陵が続くために比較的防御が薄く、また洪水でも浸水する恐れの少ない北西部を武家屋敷地とし、町人町を南部に集めた。出雲往来もこの町人町を東西に貫く形で城下に引き込まれており、町屋は往来に沿って東西に進展することになる。宮川の東に迫る丹後山南麓には東寺町と下級武士団の屋敷地を並べて弱点を補強し、藺田川以西にも敷地の広い寺院を集めた西寺町を設けて城下防衛拠点とした。また、備前往来に通じる南西方面にも武家屋敷を集めた。こうして計画的に形成された城下町が、そのまま現在の津山市街の基盤となっている。

森家4代・松平家9代にわたる歴代津山藩主の居城としてその領国経営を支え、文化6年(1809)の本丸御殿焼失以外には大きな損壊を受けることもなかったが、明治の廃藩置県・廃城令によって名実共にその役割を解かれ、明治7年(1874)から翌年にかけて全ての建物が取り除かれた。その後、総曲輪の土塁を崩して濠を埋め立てたことにより、内山下は市街地に取り込まれ、三の丸以内の中枢部も荒れるに任せていたが、旧藩士の間で保存の気運が高まり、明治33年(1900)津山町有の鶴山公園となり、以後はその都度補修・整備されて現在に至っている。

   建物こそ残っていないが、石垣は全体として旧状をよくとどめており、縄張りの巧妙さと築城最盛期の高度な土木技術、そして工事に駆り出された人々の労苦を今に伝える。ある程度加工した石を組み上げ、隙間に小さな石を詰め込んだこの積み方は、打込接(うちこみはぎ)と呼ばれるものである。また、天守曲輪南の入口付近や本丸北方の粟積櫓下の石垣には、刻印を施された石が積まれていて興味深い。これらの石材は、南方の大谷・金屋の山中から切り出したり、周辺の古城の石材を転用したりして集めたものと伝えられている。天守台からは市街地が手に取るように見渡せ、春には公園化以後に植樹された桜の花がまた格別の興趣を添える。

   津山城に関しては、絵図・指図類が多く現存する上に、明治初期の写真が残っているので、往時の姿を想像するのはそれほど難しいことではない。なお津山郷土博物館には、これらの資料に基づいて製作された150分の1の津山城復元模型が常設展示されている。(津山市公式サイトより引用)

津山城全景古写真 松平国忠 (津山藩城代家老、廃藩後に写真館主)明治5年、6年(1872 、 1873)撮影。

津山市(津山郷土資料館所蔵)公式サイトの古写真をWikipedia:ウィキペディアより引用(パブリックドメイン

広島大学工学部によって設計された学術的にもすぐれた精密模型である。縮尺150分の1で、高さは視覚的効果を高めるため一割増しの136分の1としている。各建物の復元にあたっては、江戸時代初めの「正保城絵図」(内閣文庫蔵)を基本とし、江戸中・後期の「津山城絵図」「津山城本丸図」、明治初年の古写真などで補っている。天守閣は5層5階、地下1階。その第4層だけは板葺屋根となっているが、これは幕府に憚って名目4層にみせかける工夫をしたためと伝えられる。本丸御殿と二の丸御殿は、吹き抜けとし室内の遺構がよくわかるように配慮している。全体としては正保(1644~48)頃の状況を再現している。 (津山郷土博物館内の説明文より)

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