san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る津山城(美作国) 森忠政 森一族

                                                                       〔作州津山城図〕大手門への登城道にあたる ので森一族、家老関一族の名が多く見られる。元禄10年(1697)津山城請取に際して作られた絵図。

元亀元年(1570年)、美濃金山城織田信長の家臣・森可成の六男(末子)として生まれる。誕生と同年中に父が戦死(長兄の可隆は父に先立って戦死)したために次兄の長可が家督を継いでいる。

天正10年(1582年)の春頃、「長重」を名乗り織田信長に小姓として出仕するが、同僚の梁田河内守と揉め事を起こし母の元へ返された。結果としてこれが幸いし本能寺の変 に合わずに済んだ。

天正12年(1584年)4月9日、兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死。この時点で既に他の兄達は全て早世しており、家督を継ぐ。

天正15年(1587年)2月6日、豊臣姓を下賜され、従四位下・侍従に叙任された。天正18年(1590年)の小田原征伐では韮山城攻めに参加した。朝鮮出兵の折には、九州の名護屋城普請奉行を勤め、兵2,000を率いて名護屋城下に参陣している。伏見城普請、方広寺大仏建造などにも参加した。

慶長3年(1598年)に秀吉が死亡すると徳川家康に接近。慶長4年(1599年)に伏見城下にて、家康と前田利家石田三成との対立によって双方に味方する諸侯・軍勢が参集し緊張状態となった際には徳川屋敷に参じて3日間詰め、家康より賞詞があった。

慶長5年(1600年)、かねてから希望していた信濃国川中島13万7,500石への加増転封。

関ヶ原の戦いでは東軍に与し、7月21日に家康の会津出兵に先立って宇都宮に着陣し合流を待ったが、7月24日に真田昌幸が西軍と通じ上田へと帰国した事を受けて忠政と石川康長両名は真田への抑えとして領国へと帰還するよう命じられている。

慶長8年(1603年)、小早川秀秋の死によって小早川家が無嗣改易されると美作国一国18万6,500石(津山藩)への加増転封。

津山入り後、忠政は新たな家中の抑えとなる人物を探し、江戸幕府旗本となっていた叔父の森可政の津山藩入りを幕府に希望。幕府もこれを認め忠政は可政に5,000石の所領と執政職の権限を与え、自ら国境付近まで出迎えに赴くなど厚くもてなした。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に参戦。森軍は208の首級を挙げる活躍をした。

寛永11年(1634年)7月6日、京の大文字屋宗味の邸宅で夕食をとり、宿所の妙顕寺へ戻る途中に急激に体調が悪化。強い腹痛と嘔吐感を訴え、治療の甲斐無く7月7日未明に死亡した。死因は桃に当たっての食中毒であるという。享年65。

三代藩主長武は長成に家督を譲って隠居した。その長成は元禄10年(1697年)に嗣子無くして死去。このため、元二代藩主長継は弟の関衆之の養子となっていた自分の九男・衆利を長成の継嗣として認めてもらうよう江戸幕府に訴え承諾された。ところが衆利は継承挨拶のため江戸に出府途中、伊勢で乱心したため、幕府は家督相続承認を取り消し、元禄10年(1697年)に領地を召し上げ、津山藩森家は改易された。

しかし、池田氏岡山藩)、細川氏熊本藩)、前田氏(加賀藩)、浅野氏(広島藩)などかつて森家と交友のあった諸藩から幕府への働きかけがあり、幕府は長継に新たに備中西江原藩2万石を与えることで、森氏の存続を許した。(やっと生き残った森一族が存続できてよかったです)  

宝永3年(1706年)1月28日、播磨赤穂藩に2万石で移封、明治時代まで存続。

忘れ去られた石

 平成10年の台風10号通過後、津山市大谷の石山登山道近くの谷川で、津山城築城時に切り出されたと思われる石が見つかりました。

 石の重さは約2.3トン、近くにある「津山城石切場跡」にある矢穴と同じ大きさものが石の上下に計9か所残っています。津山城築場時に切り出された石に一部であることは間違いなく、何らかの理由で築城現場まで運ばれなかったようです。この石は「忘れ去られた石」と名づけられました。

 平成16年3月に谷川から引き上げられ、同年5月の津山城築城400年記念事業「津山歴史時代絵巻~築城大石曳き~」で大谷町内のみなさんによって"歴史石曳き"として修羅(木製のそり状の運搬具)に載せて市内中心部を約400メートル曳かれた後、津山城跡近くに約400年ぶりに届けられました。

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