創建 首里城の創建年代は明らかではない。尚氏歴代居城の正殿は、かつて百浦添(ムンダシー)と呼ばれ、敬称では御百浦添(ウムンダシー)と称された。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。
王家の居城として 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても同様だった。史書に記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失している。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。一度目に再建された城の外観と構造については、『李朝実録』に記述がみられ、1456年2月の目撃記録として、首里城は、「外城」「中城」「内城」の三地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ「閣」があり、内部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていたと記述されている。二度目の焼失は1660年(万治3年)。1709年(宝永6年)には三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。現代の首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図会」(寺島良安・編)には首里城が「琉球国」の項の挿絵のなかに描かれている。
正殿焼失を含む大規模火災 2019年(令和元年)10月31日未明に火災が発生、正殿と北殿、南殿が全焼した。前述の1453年・1660年・1709年・1945年の焼失に次いで、歴史上5度目の焼失となった。 ウィキペディア(Wikipedia)より引用
現地案内板 現在地 石碑 守礼門
お出迎えニャンちゃん 現在地 木曳門 木曳門城内側
外郭石垣 現在地
継世門説明板 継世門 首里城の隅頭石は本当に綺麗に加工されています
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