概要 幕末の1863年に福江藩最後の藩主五島盛徳が完成させた五島氏の居城。築城当時は三方を海に囲まれた海城であった。幕末期の海上防衛や異国船の来訪に備えるため、城内には台場(砲台)が設けられていた。松前城とともに幕末の城郭として貴重なものである。本丸、二ノ丸、北ノ丸からなり、内堀、外堀がめぐらされた。天守はなかったが、本丸の二重櫓がその代用とされた。城の裏門である蹴出門(けだしもん)は、部品や木材の交換を重ねながらも現存する。また、土塀の一部や石橋も現存している。石垣は野面積み工法を多用しており、自然石も積み上げられている。
沿革 1614年(慶長19年)に、五島氏の当時の居城・江川城が焼失。代わって1637年(寛永14年)に石田陣屋を藩庁にした。五島氏は築城を幕府に願い続けたが、藩の財政難もありなかなか実現しなかった。しかし幕末の1849年(嘉永2年)、異国船を監視、海上防衛に備えるとの目的で、五島盛成の代に築城が認められた。盛成は海辺への築城に際し、福江川河口に、今日でいう灯台にあたる常夜灯「常灯鼻」を1846年(弘化3年)に建設、さらに波の影響から城を守るため、陸へと続く導水堤(防波堤)を1848年(嘉永元年)に完成させていた。日本初の海城である高松城に続いての海城の築城には財政難や海沿い特有の問題もあり、竣工までに14年の歳月を要したが、富江藩などからの資金援助もあり、1863年(文久2年)、第11代藩主・盛徳の代になり、ようやく念願であった居城(現代日本で最も新しく完成した城)が完成された。 ウィキペディア(Wikipedia)より引用
現在、海の部分は全部埋め立てられ、また大部分の濠は埋め立てられていますが築城時は海に面して石垣が続きその姿は圧巻だったと想像されます。
★1 ●現在地 御番門 (表門) 御番門 (表門)左側石垣
★1 縄張図 長崎県文化財調査報告書第163集石田城跡より引用 有難うございます。
御番門 (表門)右側石垣 三ノ郭北東面石垣 ●現在地 三ノ郭北面石垣
三ノ郭北面石垣 ★2 ★3 ●現在地
似た石垣積
★2 海岸より運ばれた玉石垣
三ノ郭北面石垣 ●現在地 御隠殿北面石垣
御隠殿北面石垣 狭間
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