礫川牛込小日向絵図 牛込門 小石川谷中本郷絵図
関から水がどんどん流れています。ドンドンと音を立てて流れているので、通称「どんどん」。
手塚良仙屋敷 幕末から明治初期の医師 漫画家手塚治虫の曾祖父
今戸箕輪浅草絵図 浅草寺 穢多・非人居住地(歴史用語として使用)
(穢多・非人)歴史用語として使用
士・農・工・商・「穢多・非人」の江戸時代の身分制度。
浅草非人頭・車善七は享保7年(1722)に穢多頭の浅草矢野弾左衛門の支配下に入った。
明治維新前夜、薩摩藩は弾左衛門に「貴公の家も島津候の家も、共に頼朝公から出た一家であるから、共に相呼応して幕府を倒し賤民の境遇から脱却したらどうか」と盛んに助力を頼まれ弾左衛門が非常に迷っていたと、松本良順(後の初代軍医総監)自身が口述した記録が『同方会報告』に掲載されて残っています。この問題をきっかけにして穢多・非人を平人の列に組み入れる話が決まりましたが、急に全員を平人にしては幕府の権威に関わるということで弾左衛門以下65名が幕府の時に平人の列に入りました。その後明治4年に「解放令」が出され穢多・非人制度が廃止されました。しかし、「未開放部落」として差別は続いていきます。
新吉原 傾城三千人
榊原 政岑は徳川吉宗が出した倹約令を無視して、吉原で派手に遊興にふけった。寛保元年(1741)に吉原の名妓・高尾太夫を身請けするなど奢侈を好んだ。吉宗自身は改易を考えたが、榊原家がもともと徳川四天王の名家であったこと、そして重臣の懸命な弁明により、政岑は吉宗より隠居蟄居を命じられ、家督は嫡男の正純が継ぐことを許されたものの、要地の姫路から、僻地であり懲罰転封先として知られる越後高田に転封を命じられた。
文字通り城を傾けてしまいました。この他大名、旗本で身を傾けた人が多かったそうです。江戸の世も現代も(男の人は)あまり変わりがありませんね。「他山之石」として肝に銘じましょう。
仲之町の通りは春には桜を、秋には紅葉を毎年移植して楽園を演出していました。毎年植え替える!!こういうお仕事は儲かるんですね。
本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。
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