















二の郭から本郭への攻め口です。竪堀と堀切で造られた食い違い小口があり、土橋を渡ると馬出状の平地に出ます。この平地状から本郭小口への攻撃ですが本郭下段部土塁上からの横矢を受ける事になります。








松山城の他、関八州古戦録(関東古戦録)に登場する、青山城、腰越城(安戸の砦)も上田氏と深く関わった城と考えられます。
関八州古戦録の詳細は、永禄4年(1561)12月、上杉新蔵人憲勝の守る松山城を、北条氏政、大石氏照、北条綱成の3万余騎が、翌永禄5年正月、武田信玄、武田義信2の万5千余騎をもって攻め、永禄5年3月2日、開城させたことです。
氏政は、新蔵人憲勝に武州都築郡で300貫の知行を与え、松山城には上田暗礫斎と同上野介朝広を戻して、青山、腰越の砦とともに固く守らせ、その後退陣したと記されています。
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