san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る高知城 杉の段

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  ●現在地            杉 の 段 へ の 石 段

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   石樋      石樋説明板            石  樋

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  石樋        杉 の 段 へ の 石 段        ●現在地

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  ★杉の段 ★三之丸石垣         素晴らしい野面積の石垣ですね

野面積み 自然石をそのまま積み上げる方法である。加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていない。そのため隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点があったが排水性に優れており頑丈である。技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀戦国時代のことである。野面積みの一種として穴太積みがあげられるが、穴太積みは穴太衆が手掛けた石垣であって、特に野面積みの一種をいうものではない。穴太衆の技術の高さを誇示する為に江戸後期以降用いられた呼称である。 

穴太衆は、近江比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太延暦寺日吉大社門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城石垣を施工したことで、織田信長豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国のに召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。

ウィキペディアWikipedia)から引用   

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           杉 の 段 よ り 見 る 天 守

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