お待たせしました。紀州の城めぐりの様子です。
4月29日(木)~30日(金)で紀州の城をめぐってきました。
天気予報では、29日は大雨のマーク。スケジュールを入れ替えてのスタートです。
1日目 和歌山城→太田城→龍松山城→田辺城
雨でも傘をさして見学できるお城めぐりとしました。
◆和歌山城
雨に濡れた緑色泥岩の石垣がきれいだという事で、当日急きょ寄りました。
雨に濡れた石垣と新緑
◆太田城
和歌山駅の近くの町中に位置し、来迎寺というお寺が本丸跡と伝えられています。遺構はほとんど残ってはいませんが、秀吉の紀州攻略の際、水攻めにあい落された城です。
来迎寺に残る石碑
◆龍松山城
山城ですが、城の二郭が駐車場です。雨が強くなり石碑などを確認して早々と引き上げました。二郭東側の斜面に二重堀切と竪堀が残っているそうです。(少し残念)
南紀にあるこの城も秀吉の紀州攻めにあう。和睦の際、藤堂高虎の館にて城主他12人が謀殺されたという。
311号線沿いに、このようなおおきな看板が
建っているので入口はすぐにわかります。
本丸にある石碑
◆田辺城
徳川頼宣が紀州に入ると付家老の安藤直次により築かれました。当時の遺構として水門跡が残っているのみです。
一日目終了です。5時過ぎに宿に到着。本日の宿は温泉付きです。宿に到着後まず温泉、食事をして、その後また温泉、翌朝もまた温泉。ぬるぬる感のある良いお湯で参加者はみな見違えるほどピカピカ?!でした。
海の幸がたくさんありました。
2日目 安宅勝山城→安宅八幡山城→亀山城→手取城
昨日とは一変して本日は晴天、さあ山城4城を制覇しようという意気込み委でスタートです。(恐怖)
◆安宅勝山城
初っ端から比高212mの山城です。車を降りうろうろしている私たちに、集落の入り口で地元のおじさんが丁寧に登り口を教えてくれ、駐車場も使わせてもらいました。(感謝)
登り口からは急な斜面が続きかなり荒れています。山登りのベテランの副会長がトップを歩いてくれました。
この城の頂上からは海上も望めます。東の尾根にはすさみ方面からの侵攻に備えるための5本の連続した堀切・竪堀があり圧巻でした。
安宅氏は鎌倉時代に阿波国より派遣された一族で、「熊野海賊」の猛威を抑える「安宅水軍」として役割を担っていたようです。
朽ちている城址の案内板
登り口からしばらくは足元が悪い急坂を上って行きます。
写真ではわかりずらいがこの先に三重の堀切が畝状 竪堀のように残っている.
主郭
遠望できるよう木を切ってくれている
主郭からの眺め
日置川が流れ河口は近い、
右手前に見えるのが
安宅八幡山城
郭をとり囲んでいた石積が残っている。
◆安宅八幡山城
現在は残っていない安宅本城の詰め城です。比高は83m。今は神社が建っている。遺構がよく残っており、主郭を取り巻く土塁は石積みとなっており、巨大な横堀、竪堀が郭を覆っていました。
竪堀 曲輪を取り囲む横堀
洋食なのにお箸で食べました
◆亀山城
比高は110m、室町幕府奉公衆湯川氏の居城です。12代続いた居城も秀吉の紀州征伐で敗れ、和睦のため大和郡山城を訪ね、ここで謀殺されたようです。主郭部分には南北2段の曲輪があり周りを土塁がめぐっていました。堀切などは現時点で確認できていない城址のようです。
◆手取城
本日4城目です。かなり疲れてきました。
狭い道が続きましたが何とか城の駐車場まで車を入れました。
こちらは室町幕府奉公衆玉置氏の居城です。亀山城主とともに日高地方を二分する勢力を築いて代々続いていました。また亀山氏と姻戚関係を結んでいましたが、秀吉の紀州征伐にあたり意見が合わず、玉置氏は戦わずして秀吉軍に従いました。
この城は主郭、二郭、東の曲輪、大きな堀で区切られている西の郭あたりはきちんと整備されていて堀切、石積みなど遺構がよく残っています。駐車場を降りて歩いているとところどころに竪堀のあと、郭、ため池の表示などがあったので調べてみたら、西の曲輪の奥の遺構のようでした。
この溜池の左側には本丸と西の丸を分る大きな堀が遺構として残っている。
二の丸下のひな壇のような石垣
二の丸に建っている石碑
2日間の城めぐり、本日はかなりの疲労を覚えました。でも途中でマンホールカードもゲットできてよかったですね。機会があればまた行ってみたいとは思いますが・・・
遠いです。参加された皆様お疲れさまでした。