san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る日本で唯一の円郭式城郭 田中城

田中城は静岡県藤枝市田中にあった日本の城。形式は平城。江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた。前身は徳一色城。藤枝市指定史跡。また関連する建造物4件(田中城本丸櫓、長楽寺村郷蔵、茶室、仲間部屋・厩)と城絵図2件が市指定有形文化財である。

歴史

田中城は天文6年(1537年)に駿河今川氏によって築かれた。永禄13年(1570年)の武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要として重要視された。

永禄13年(1570年)正月、武田信玄により攻め落とされ、馬場信春により改修。田中城に改名。武田家家臣山県昌景が入城。

天正10年(1582年)、甲州征伐の際、徳川勢により攻められるが城将の依田信蕃が頑強に抵抗し、主家の武田勝頼の死後まで守り抜いた。その後は武田家を離反した穴山梅雪の説得で開城。徳川家の高力清長が入城した。

天正18年(1590年)の徳川家関東移封後は駿府城中村一忠の管轄となった。慶長6年(1601年)、酒井忠利が田中藩主となり城域の拡張や藤枝宿の城下町への取り込みなどを行った。酒井忠利は慶長14年(1609年)に川越に転出し、以後は駿府に居を構える徳川頼宣徳川家康によって支配された。

元和2年(1616年)1月に徳川家康は田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食した。これが家康の死因とする説がある。

寛永10年(1633年)以後、松平氏、水野氏、北条氏等が封じられた後、享保15年(1730年)、本多正矩が4万石で封じられ、以降明治維新まで同地に拠った。

明治元年(1868年)、最後の田中藩主本多正訥が安房長尾藩に移封される。駿河国に転封となった徳川本家(静岡藩)の支配地となり、高橋泥舟が城を預かる。のち廃城となった。       『ウィキペディアWikipedia)』より引用

[幕府の公式史書徳川実紀」記載より引用

東照官御実紀の記事で『元和二(1616)年正月二十一日に駿河の田中で鷹狩をなさった。そのころ、茶屋四郎次郎が京からやって来てお会いになり、さまざまなお話をお聞かせになると「最近上方では、なにか珍しいことはないか」とお尋ねになった。

(茶屋は)「あります。最近京や大坂のあたりでは、鯛をかやの油(榧の実からしぼりとった上等な植物油)で揚て、その上にニラをすりかけたものが流行しており、わたしも頂きましたが、大変よい風味でした」と申し上げた。

折よく、原内記清久から能浜の鯛が献上されたので、すぐそのように調理をお命じになり、これをお食べになるとその夜から腹痛にお苦しみになり、すぐに駿府城へお戻りになりご療養に入られた。一旦は容態が落ち着かれたようにみえたが、お年を召しているため、ぶりかえして再度お苦しみになられ順調に回復とはいかなかった。』と記載されている。

(※但し、家康がどこで鯛の天ぷらを食べたのかについては諸説があるようです。)]

〔日本古城絵図〕東海道之部 駿州田中城図

国立国会図書館デジタルコレクション

公開範囲 インターネット公開(保護期間満了)

田中城の周辺は高低差のほとんどない平地で、この地域は瀬戸川に隣接する湿地であった。微高地に本丸(標高13.3m)を置き、それを中心にして二之丸、三之丸、四之丸が半径約750mの同心円状に4重の水堀を円形に巡らす珍しい構造を持っています。縄張りを円形にする利点としては、方形ではどうしても隅部に死角が生じてしまうが、円形では死角がないこと。また、同じ面積規模の城郭であれば、方形よりも円形の方が外周が短くなるため、防御する兵員を最小限にすることができる等が挙げられます。別名亀甲城、亀城と呼ばれたが、これは円形が亀の甲羅に似ていたことによる。

周囲の湿地に加え三日月堀を備えた武田流築城術の丸馬出6カ所、三之丸への枡形門4箇所、二之丸への3箇所の枡形門、三之丸内の横移動を困難にする空堀、水堀。遺構の残りは少ないですが防御性が高い工夫の凝らされた縄張りです。

この堀と土塁が残っていれば国指定特別史跡に指定され国中の城ファンが集まって来たとおもいますね。

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