san-nin-syuの城旅

san-nin-syuの城旅

「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

              ★San-nin-syuの城旅「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします★ 右サイドバーカテゴリーより見たいお城をクリックしてください★

縄張図片手に廻る山中城 三の丸 宗閑寺

北条流築城法集大成の山城

 

 

f:id:san-nin-syu:20200526075501j:plain
f:id:san-nin-syu:20200526075510j:plain
f:id:san-nin-syu:20200526075518j:plain

   現在地                   宗閑寺

f:id:san-nin-syu:20200526075638j:plain

左より箕輪城主多米長定・山中城副将間宮康俊兄弟・山中城主松田康長・美濃軽海西城主一柳直末墓所
一柳直末は秀吉が信長に仕えていた時代から、秀吉に仕えていました。山中城落城後、一柳直末の討死を聞いた秀吉は、「関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほとんど口をきかなかったといわれます。

樺太探検で有名な間宮林蔵は北条氏没落後、常陸国筑波郡に移り住み帰農した間宮氏の後裔という。

f:id:san-nin-syu:20200526075700j:plain

             ムムッ、何故葵の紋所が?

山中城で討死した副将間宮康俊(法名は宗閑)の娘お久は、山中城落城後徳川家康に仕えそして側室となり四女松姫をもうけている。亡父の菩提を弔う為、家康に寺を建てることを願い出て許され、建立したのが宗閑寺である。  

ああ!人生流転、山あり谷ありですね。  

私もそうでした!!!嗚咽

お久の方の関係からか間宮一族から徳川旗本になった者が多い。

f:id:san-nin-syu:20200526080505j:plain
f:id:san-nin-syu:20200526080513j:plain

               『渡辺水庵覚書』

山中城の攻防の様子は『渡辺水庵覚書』続群書類従第二十輯下合戦部に詳しく語られています。中村一氏隊に属して城を攻め、山中城に一番乗りを果たした渡辺勘兵衛の覚書です。

小さいお寺(失礼)一つにも色々な歴史が詰まっていますね。これだから歴史は面白くて、そして城廻りはやめられません。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。