脱線します。どうもお城と関係なく脱線が多くなってきました。ご容赦を。
江戸切絵図と浮世絵を照らし合わせて見ていますと、想像力を掻き立てられ江戸の町をブラブラと歩いている感じで楽しくなってきます。江戸の暮らしの様子が浮かんでくる様です。今と昔をつなぐ古地図の魅力。
現在、多数の情報が出版物、ネットで得る事が出来ます。皆様も是非ご覧になってください。
「江戸切絵図」
下書きされた地図を絵師が仕上げるため、絵図と呼ばれた。
「尾張屋清七板江戸切絵図」は見やすさを重視したため縮尺が実際と違い正確ではありません。また、方位も北が必ずしも上ではありません。江戸の町は100万人の人口を抱える世界最大の都市でした。そのうちの約半分は武士、多くは地方出身の武士です。当時の武家屋敷には表札が掛かっていません。目的の屋敷にたどり着くには携帯できて、分かりやすい切絵図(江戸時代のグーグルマップ)が必要だったのです。
絵図の見方
家紋がある家(大名・上屋敷)
家紋の刷ってある所が表門。 幕府から拝領した常住公邸で、登城の便を考えて、主に西丸下、大名小路、外桜田周辺に集中的に配置されていた。
■印がある家(大名・中屋敷)
印のある位置が表門。 隠居藩主、跡継ぎが暮らす常住屋敷で、御城の外濠の内側に沿った場所に多くあった。
●印がある家(大名・下屋敷)
印のある位置が表門。 郊外の別邸で、景色の勝れた所にあり、また、すべての大名が持っていたわけではない。
江戸切絵図は地図上の名前の向きがバラバラです。それは表門に面して住んでいる人の名前を書いていた為です。
敷地が広い為、表門を探して歩くと時間がかかるので表門を印で分かるようにしてあります。
切絵図の色分けは、塗られた色により
白色・・武家屋敷 赤色・・寺社 鼠色・・町屋
水色・・堀、川、池など 緑色・・森、土手、馬場など
黄色・・道、橋となっています。
鼠色に塗られた町屋には町名が記されているが、武家屋敷には町名らしき記載がありません。これは、武家屋敷には住所は無かったということです。
歌川 広重(寛政9年(1797)ー安政5年9月6日(1858)江戸時代の浮世絵師。
江戸の定火消の安藤家に生まれ家督を継ぎ、馬場先門前の幕府直轄消防組織に定火消同心として20年間詰めていました。
その後に浮世絵師となり『名所江戸百景』『東海道五十三次』等の風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの画家にも影響を与えた。
死絵(しにえ)は、その訃報と追善を兼ねて版行された浮世絵。
奉行所として北町奉行所と南町奉行所が設置されたが、これは相対的な位置関係で職務に関しては月番制をとっていたのであり南北に管轄を分けていたわけではない。
町奉行は「御府内」と呼ばれた江戸の区域のうち町屋敷のある地域を管轄し、町触という法令を出すとともに行政権や裁判権をもつ職であった。
与力は南北奉行所に25名ずつ、同心は100名ずついた。50万人の町人の人口に比べると南北合わせて250人程度という非常に少ない人数で治安維持や行政、防災にあたっていたのである
奉行には旗本が任命され、町奉行の石高は3000石程度であった。町奉行は旗本が就く役職としては、最高のものでしたが 激務の為在職中に亡くなる者が多かった。
麹町永田町外桜田絵図
山田 浅右衛門は、御様御用刀剣(おためしごよう)という刀剣の試し斬り務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。介錯役も務め、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。
橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰らの首を斬ったのは山田 浅右衛門七代目である。
赤坂絵図
勝海舟 弘化3年(1846)に本所から赤坂田町に移り私塾「氷解塾」を23歳の時に開く、後の安政6年(1859)7月に氷川神社の近くに移り住むことになる。
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