san-nin-syuの城旅

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「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

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縄張図片手に廻る彦根城 二の丸玄宮園 1

玄宮園は、江戸時代初期の延宝6年(1678)に彦根藩4代藩主井伊直興が造営したといわれる。玄宮園は御殿部分の「楽々園」に対して名付けられたものであるが、この呼称がいつ頃から用いられるようになったかははっきりしていません。

玄宮園の位置は城内の北東部で内濠と琵琶湖の入江(松原内湖)に挟まれた二の丸内にあり、築城当初は重臣川手主水の屋敷が建てられていたが、主水が大坂夏の陣で死亡してから後に、寛永元年(1624)ごろに下屋敷として建設されたといわれます。

玄宮園は、江戸時代には「槻之御庭」と呼ばれていました。隣接する楽々園は槻御殿と呼ばれ、延宝5年(1677年)、4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられ、昭和26年には国の名勝に指定されています。現在は、庭園部分を玄宮園、御殿部分を楽々園と称しています。

玄宮園の名は、古代中国の宮廷の名によって命名されたと考えられます。玄宮園は、広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。池の水は、外堀からサイフォンの原理により導水していました。池には船着きがあり、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともありました。また、松原内湖に面した庭園の北側の水門(埋門)から舟で琵琶湖まで出られるようになっていました。

江戸時代に描かれた「玄宮園図」には「臨池閣(りんちかく)」「鳳翔台(ほうしょうだい)」「魚躍沼(ぎょやくしょう)」「龍臥橋(りゅうがばし)」「鶴鳴渚(かくめいなぎさ)」 「春風埒 (しゅんぷうれつ)」「鑑月峯(かんげつほう)」「薩埵林(さったりん)」「飛梁渓(ひりょうけい)」「涵虚亭(かんきょてい)」の十景が付箋によって示されており、当時「玄宮園十勝」と呼ばれていたことが確認されています。

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●現在地

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●現在地

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●現在地

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