san-nin-syuの城旅

san-nin-syuの城旅

「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします。

              ★San-nin-syuの城旅「歴史を廻る会」の活動の様子をお伝えします★ 右サイドバーカテゴリーより見たいお城をクリックしてください★

縄張図片手に廻る 寄り道して屋嶋城(やしまのき) 1

屋嶋城は二重防御の城である 。浦生(うろ)地区の遺構は、進入路を塞いだ遮断城で、大野城と水城・鬼ノ城と水城状遺構と同類とされている。

私は浦生石塁を訪れたことはありませんので説明の為の上の写真2枚を『ウィキペディアWikipedia)』より引用させて頂きました。

                     

 天智天皇6年(667) 大和国安城讃岐国山田郡屋嶋城、対馬国金田城を築く。

  天智天皇7年(668) 正月中大兄皇子天皇に即位。とあります。

日本書紀』には 、「大和国に高安城讃岐国に屋嶋城(やしまのき)・対馬国に金田城を築く」と、記載されている。

屋嶋城跡の調査研究は、1919年(大正8年)の東京帝国大学(現東京大学)の関野貞氏による、「浦生の石塁 」をとりあげた論文発 表に始まります。その後、1985年(昭和60年)に村田修三氏(当時奈良女子大学)によって、南嶺北側の山上斜面部にある幅2mほどの平坦面が屋嶋城の土塁ではないかと指摘されました。いずれも年代を具体的に特定することができず、屋嶋城が本当に実在したのかということすら疑問がもたれるようになり、やがて『幻の城』とさえ呼ばれるようになってしまいます。そのような中、屋嶋城の存在をなんとか解明しようと屋島を探索されていた平岡岩夫氏が、現在城門地区と呼んでいる場所で1998年(平成10年)に山林に埋もれた石積みの一部を発見しました。この発見を契機に高松市教育委員会が発掘調査を開始し、2002年(平成14年)に城門を発見し、ついに屋嶋城が実在したことが証明されたのです。 (古代山城屋嶋城パンフレット 高松市

本日もブログを見て頂きありがとうございます。 感謝申し上げます。お城でお会いできる日を楽しみにしています。

本サイトの内容(写真の説明、記事等)に誤りが含まれている可能性もあります。 どうかご容赦ください。