1998年、屋島のふもとに住む平岡岩夫さん(77)は「幻の城」を探していた。中大兄皇子が唐と新羅の侵攻に備えて667年に築かせた山城とされる「屋嶋城(やしまのき)」。日本書紀に記述はあったが、その存在を示す石垣は見つかっていなかった。
城の痕跡をたどろうと、平岡さんは毎日のように屋島を巡り始めた。2年ほど経ったある日、目にした光景を疑った。斜面から古い石垣が顔を出していたのだ。「驚いて言葉も出んかった。畑の石垣ではないのはわかったし、えらいことになったなと思ったよ」と、当時を振り返る。
平岡さんから報告を受けた市は、7年かけて城壁を復元。屋島を代表する名所の一つとなっている。
屋嶋城VR【現地体験型VR観光アプリ「ストリートミュージアム」から引用
発掘調査の結果、平成10年に見つかった城壁の一部は高さ6メートルにも及ぶことがわかりました。城壁は自然地形に添うように、蛇行しながら築かれています。前面を石積みで、背面は盛土で構築しており、盛土は土と石を使用しておおよそ3層構造になっています。
懸門(けんもん)と呼ばれる約2.5メートルの段差
懸門は朝鮮半島の古代の山城によくあるもので、屋嶋城築城に当たって朝鮮半島の築城技術が用いられたことを裏付けるものと言え、日本で初めての確認例として注目を集めました。
梯子(はしご)などで出入りをして、有事の際には梯子をはずしていたと考えられます。
懸門を越えて、敵が侵入した場合に備えて、城門の奥には岩盤がせりたち、その上に小規模な土塁を巡らすことで侵入路を城壁北側に限定する構造になっています。平面が甕を縦に割った形状に似ていることから、この名称がつけられています。その小規模な土塁の基底部には列石が残っていました。このような城内側に防御のために設けられた施設は内甕城(うちおうじょう)と呼ばれています。
雉城(城壁の一部を突出させ、敵を攻撃する施設)
「朝鮮式山城」「神籠石系山城」
飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設の総称である。従来、文献に見える山城は「朝鮮式山城」、見えない山城は「神籠石系山城」と呼び分けられてきたが、近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にある。
文献に見える城は12ヶ所(狭義の朝鮮式山城11ヶ所と中国式山城1ヶ所)、見えない城は16ヶ所(いずれも神籠石系山城)があり、合計28ヶ所を数える。これらは基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なものでは区画の外郭線が数キロメートルに及ぶ。
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